ひな祭り(桃の節句)は昔から女の子の行事として親しまれています。小さな頃からひな人形を飾り、ひなあられを食べて楽しんできたという方も多いでしょう。
ひな祭りとはいつからあるのでしょうか。なぜ3月3日を桃の節句と呼ぶのでしょうか。この記事では、ひな祭りの起源や由来、3月3日に食べる食事の意味や、ひな人形の変遷などについて説明します。
1. ひな祭り・桃の節句の由来と昔の風習
ひな祭りや桃の節句の意味や由来について紐解いていきましょう。歴史から毎年のひな祭りにどんな役割があったのかを知ることができます。
現代のひな祭りはどんな日?
現代のひな祭りや桃の節句といえば、3月3日に行われる女の子の成長や健康を願う行事です。男の子の成長を祝う5月5日の端午の節句と比較されることも多いですね。ひな人形や桃の花を飾り、ちらし寿司などを食べて女の子の成長をお祝いします。
ひな人形、桃の花、ちらしずし、ひなあられなどは、近現代のひなまつりでは定番のもの
ひな祭りの起源は中国の風習
ひな祭りの起源は中国の「上巳(じょうし)の節句」です。上巳の節句とは「五節句」と呼ばれる年中行事のひとつで、旧暦三月初めの巳(み)の日に、みそぎなどを行うというものでした。
上巳の節句の頃は、季節の変わり目にあたり、体調を崩す人が多い時期でした。古来、体調不良や病気は、目に見えない悪いものが引き起こすと考えられていました。そこで人々は、季節の変わり目に川や海で身体を洗い清めるみそぎなどでけがれをはらい、病気や災いを避けようとしていたのです。
五節句は1月、3月、5月、7月、9月にあります
日本では「流しびな」が定着
「季節の変わり目に邪気やけがれをはらう」という風習は、日本では「流しびな」という形で定着していきました。
流しびなは、上巳の節句に紙や土で作った人形を自分の身代わりにして川や海に流す行事です。人形に息を吹きかけたり、体をこすったりして自分に付いているけがれを移しました。
子どもが生まれたときに人形を作って、3歳になったら川に流すという風習もあります。医療が発達していなかった昔は、子どもが3歳になる前に亡くなってしまうことが珍しくなく、人形を身代わりにして病気や事故を避けていました。今でも流しびなは子どもの成長を願う行事として残っている地域があります。
京都・下鴨神社の流し雛
「流しびな」と「雛(ひいな)遊び」の習合
人形を子どもや自分の身代わりとして川や海に流してけがれをはらっていたのが「流しびな」の風習です。流しびなに使っていた人形はやがて、雛人形と原型となる「立雛」となり、平安時代には貴族の女の子の遊び「ひいな遊び」に用いられるようになりました。
こうして流しびなとひいな遊びが合わさり、人形がだんだんと立派になると、川に流さず自宅で飾るようになりました。自宅に飾るひな人形は現代のひな祭りに受け継がれています。
紙の雛人形。はらいに用いていた形代(身代わりの人形)が発展したものと考えられています(出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム|立雛)
【ちなみに】桃の節句はなぜ〝桃〟?
ところで、ひな祭りは「桃の節句」とも呼ばれていますよね。なぜ桃なのでしょう?
桃は上巳の節句の頃に咲き、魔除けの力がある植物と考えられていました。中国では、上巳の節句に桃の花びらを浮かべたお酒を飲んで季節の変わり目を無事に過ごす習慣もあります。
このようなことから、女の子の健やかな成長と幸せを願う一連の行事を「桃の節句」と呼ぶようになりました。
桃の花
【ちなみに】ひな祭りの〝ひな〟とは? ひな人形はいつ飾る?
ひな祭りや「ひいな遊び」の「ひな」とは、ひな鳥ではなく女の子が遊ぶ人形のことです。もともとは「小さくてかわいらしいもの」という意味でした。
ひな祭りに飾られるひな人形は「内裏(だいり)びな」とも呼ばれ、天皇と皇后のことを表しています。昔は左側(向かって右側)にいる人の方が位が高いとされていたので、向かって右側に男びな(=天皇)、左側に女びな(=皇后)を配置していました。
現代の東京では向かって左に男びな、右に女びなを配置することが多くなりました。これは昭和天皇の即位の礼で天皇が向かって左側に立ち、皇后が右側に立った写真が公開されたためです。京都では今でも右側に男びなを配置しています。
男びなが向かって右側に並べられた雛人形。京都などで見られます
男びなが向かって左側に並べられた雛人形。東京などで見られます
ひな人形は節分の翌日から2月中旬までに飾り、ひな祭りが終わったらできるだけ早く片づけるのがよいとされています。ひな人形を片づけることでけがれも一緒に片づけるという意味合いです。
2. 「桃の節句」「ひな祭り」にまつわる食べ物と、込められた意味
桃の節句やひな祭りにはひなあられや菱餅を食べたり、ちらし寿司やはまぐりのお吸い物を家族で囲んだりする風習があります。これらの食べ物には女の子の将来を願う意味が込められています。
菱餅
菱餅はピンク・白・緑の餅を重ねて菱形に切ったものです。ピンクは生命や桃の花、白は雪、緑は若芽を表しています。菱形はヒシの実をかたどったものとも言われています。ヒシは繁殖力が強いので、子孫繁栄を願って表現されました。
菱餅
ひなあられ
ひなあられは、米や砕いた菱餅で作られた3色もしくは4色のあられです。色には意味があり、4色は四季を表しています。3色はピンク・白・緑が一般的です。ピンクは生命、白は雪、緑は若い芽を表現しています。
ひなあられは関西と関東で見た目も味も違います。左が関西のひなあられ。餅でできたあられ(おかき)で、塩や醤油、マヨネーズなどで味付けされています。右は関東のひなあられ。米で作られたポン菓子のようなもので、ほんのり甘いものが多いです
ちらし寿司
ちらし寿司は酢飯の上に錦糸卵や豆、エビ、タケノコなどを散りばめたカラフルなお寿司です。具材の種類が多いので、将来食べ物に困らないようにとの願いが込められています。それぞれの具材にも意味があります。
●錦糸卵……お金が貯まるように
●豆……仕事がうまくいくように(マメに働く)
●エビ……腰が曲がるまで長生きするように
●タケノコ……健康にすくすく育つように(竹は成長が早いので)
ちらしずし
はまぐりのお吸い物
はまぐりは、同じはまぐりの貝殻でないとぴったり合わないという特徴があることから、幸せな結婚や良縁の願いが込められています。平安時代には、はまぐりの貝殻に絵を描いて同じ絵を合わせるという「貝合わせ」という遊びもありました。
はまぐりのお吸い物
3. ひな人形の移り変わり
ひな人形は最初、紙や草などで簡単に作られたものでしたが、江戸時代になって精細な人形が作られ現代にも伝わっています。ひな人形の変遷をたどってみましょう。
紙人形時代
けがれをはらうための人形は奈良時代から使われ始めます。平安時代になって紙で作った人形で遊ぶ「ひいな遊び」が流行しました。「ひいな遊び」には紙で作った御殿もあり、今の人形遊びとよく似ています。紙で作った人形を川に流してけがれをはらう流しびなも平安時代から始まったと考えられています。
身体が紙でできている古式立雛。江戸時代・17~18世紀頃(出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム|古式立雛)
江戸時代のひな人形の移り変わり
江戸時代前期までは紙で作られたひな人形がおはらいの儀式として使われていました。江戸時代中期に人形作りの技術の高まりとともに、人形がだんだんと精巧なものになっていったため、川に流さずに部屋で飾るようになります。女の子の初節句を祝う風習も江戸時代からです。
元禄雛や享保雛などの豪華なひな人形も作られました。男びなと女びなの一対だけだったひな人形は五人ばやしや三人官女、嫁入り道具のミニチュアなども揃えられ、ますます豪華になります。豪華なひな人形は嫁入り道具として裕福さを証明するものでした。
立ち姿から座り姿になった元禄雛(古式享保雛)(出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム|元禄雛(古式享保雛))
享保雛(大内雛)(出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム|享保雛(大内雛))
まとめ
ひな祭り・桃の節句は、上巳の節句が桃の花が咲く3月上旬だったことに謂れがあります。桃には長寿や魔除け・厄除けの力があると考えられてきました。
ひな祭りは平安時代の流しびなや「ひいな遊び」が合わさり、時代を経て子どもの成長を願う行事へと変わり、現代のひな祭りとなっています。
ひな人形を出す際には1年間の厄除けを願い、桃の節句をお祝いしてはいかがでしょうか。
Text:Hanae Yamashiro Edit:Erika Nagumo
Photo(特記ないもの):PIXTA
参考:
辰巳 渚・文 運田ななえ・絵『「親のことば」で伝えたい 家族で楽しむ25の年中行事』(岩崎書店)
三越伊勢丹『三越伊勢丹 日本の年中行事 暮らしアルバム』(マガジンハウス)
福田アジオ・菊池健策・山崎裕子・常光 徹・福原敏男『知っておきたい 日本の年中行事事典』(吉川弘文館)
中西弘樹『日本人は植物をどう利用してきたか』(岩波ジュニア新書)
岡田芳朗・松井吉昭『年中行事読本』(創元社)
コトバンク
国立博物館所蔵品統合検索システム
ほか