【POINT】1分で分かる村上水軍
1.ルイス・フロイスから見た村上水軍
2.全盛期の村上水軍|ライバルは信長方の九鬼水軍
ある意味ライバル同士! 島ごとに分かれていた村上水軍
毛利氏の勝利は村上水軍を味方にできたから?
信長とも対戦! ライバル・九鬼水軍との激突
時代の変化|村上水軍に忍び寄る衰退の足音
3.物語はここから|水軍と村上氏の起源
4.村上三家がたどった道|隆盛とその後
【因島村上水軍】作った砦はあちらこちらに
【来島村上水軍】戦国期には毛利軍で活躍
【能島村上水軍】最も海賊的だったヤバい集団!
5.戦うだけではなかった! 近年「村上海賊」と呼ばれる理由
6.村上水軍の関連スポット
海賊を知るなら【今治市 村上海賊ミュージアム】
大満足の【潮流体験・観光船・能島水軍】
因島水軍に陶酔!【因島水軍城】
海賊たちの信仰を集めた【大山祇神社】
しまなみ随一の絶景【亀老山展望台】
7.村上水軍にまつわる作品
村上竜 著の長編大作『村上海賊の娘』
白石一郎 著の海洋時代小説『海狼伝』
まとめ

青く輝く海と美しい多島美の織りなす絶景が広がる瀬戸内海。かつてそこに、海賊と呼ばれる海の武士たちがいました。

瀬戸内海の西部・芸予諸島を中心に活躍し、日本最大の海賊と称されたのが「村上水軍」(「村上海賊」)です。この記事では村上水軍や、戦国の海に生きた彼らの味方、ライバルたちについて解説していきます。「村上水軍って何ですか?」、「村上水軍って海賊なの?」などの疑問にお答えしつつ、村上水軍の歴史や、関連スポットの魅力をご紹介します。


TOP画像 画:香川元太郎/所蔵:村上海賊ミュージアム

【POINT】1分で分かる村上水軍

POINT1:「村上家」が率いた船乗り集団が村上水軍。全盛期は三家に分家して3つの島を拠点にしていました

POINT2:戦国時代に戦で活躍! 村上水軍による海からの攻撃は戦の勝敗を分けました

POINT3:村上水軍は瀬戸内の海のプロフェッショナル。海峡で通行料を受け取る代わりに海を案内する「水先案内人」「ボディーガード」でした

POINT4:因島や大島などには今も村上水軍にまつわるスポットがあります

1.ルイス・フロイスから見た村上水軍

能島を望む村上武吉とルイスフロイスのイメージ画

能島を望む村上武吉とルイスフロイス(画・香川元太郎/村上海賊ミュージアム蔵)

ポルトガル人宣教師のルイス・フロイスは、村上水軍を「日本最大の海賊」と呼んでおり、外国人の彼は〝何をするか分からない危険な集団〟と感じたようです。瀬戸内海を訪れたときに見た村上水軍についてフロイスは、『日本史』に次のように記します。


“その島には日本最大の海賊が住んでおり、そこに大きい城を構え、多数の部下や領地や船舶を有し、それらの船は絶えず獲物を襲っていた。この海賊は能島殿といい、強大な勢力を有していたので、他国の沿岸や海辺の人々は、彼によって破壊されることを恐れるあまり、毎年、貢物を献上していた。”(引用元:山田吉彦著『村上水軍のその後』[新潮社])


フロイスの目には、理不尽に船を襲い金品を略奪する集団と映ったようです。しかし、実際には村上水軍はいくつもの顔を持っていたようです。
「海賊」と呼ばれた村上水軍。一体どんな集団だったのか。村上水軍の全盛期からご紹介していきます。

2.全盛期の村上水軍

ある意味ライバル同士! 島ごとに分かれていた村上水軍

今治市の海に浮かぶ能島

村上三家が拠点を置いていた島のひとつ、能島。現・愛媛県今治市(写真:Yoshinori Okada/PIXTA)

室町〜戦国時代にかけての村上水軍は、瀬戸内海に浮かぶ因島(いんのしま)、能島(のしま)、来島(くるしま)を拠点に三家に別れ、時にはライバルとして戦い、時には助け合い結束して、瀬戸内海をほぼ支配し、海の安全を守っていました。三家の祖は村上師清(むらかみ もろきよ)と言われています。

一説によれば1419(応永26)年頃に、村上師清の跡を、三人の息子たちが継ぎ、それぞれ別の三島に分かれました。長男・吉顕(よしあき)が能島村上の祖、次男・吉房(よしただ)が来島村上の祖、三男・吉豊(よしとよ)が因島村上の祖と言われています。

毛利氏の勝利は村上水軍を味方にできたから?

瀬戸内海には古来より多くの独立性の高い海賊(水軍)がいました。戦国時代の西国では、地の利のある水軍を味方につけた者が戦の勝者となったため、水軍の活躍の場が広がりました。その最大勢力を誇ったのが村上水軍です。

1555(弘治元)年、毛利元就(もうり もとなり)(※2)VS陶晴賢(すえ はるたか)(※3)の「厳島の戦い(いつくしまのたたかい)」が起こります。ここで活躍したのが村上水軍です。

厳島の戦いイメージのイメージ画

厳島の戦いイメージ(画・香川元太郎/村上海賊ミュージアム蔵)

1555(弘治元)年9月22日、陶晴賢の陶軍は2万の大軍と500の大船団を組み厳島に押し寄せました。一方の毛利軍は城兵500を含む3500の将兵のみ。圧倒的な兵力差のある状況で、毛利軍は9月27日には落城寸前になっていたと言います。元就も「もはやこれまで」と思ったであろう28日、200艘の大船団を引き連れ、村上水軍がやってきます。

元就は元々、村上三家のうち因島村上水軍を味方につけていたのですが、養子に出した三男・小早川隆景(こばやかわ たかかげ)を通じて、来島村上水軍や能島村上水軍にも働きかけていました。

三男・小早川隆景は小早川水軍の頭・乃美宗勝(のみ むねかつ)を村上水軍側へ送り、「力を貸して欲しい」と誠心誠意頼み込みます。一方で陶氏も来島村上水軍や能島村上水軍に対し、手紙で「陶に味方せよ」と送っていました。村上水軍は毛利氏と陶氏、両方から味方になるよう依頼されたわけですが、誠意の差で村上水軍全軍が毛利方に加担したのです。(諸説あり)

村上水軍が使用した船の模型

村上水軍が使用した船の模型。左から安宅船、関船、小早船(写真:村上海賊ミュージアム)

この村上水軍増援により戦況は一変。毛利軍が優位に立ちました。陸では元就の軍が陶晴賢の本陣を背後から突き勝利。海では村上水軍が猛威を振るい、陶水軍を混乱させ沈没または自壊させました。

陶氏は自陣の水軍が敵より優位にあると慢心して敗北。毛利氏は、小早川水軍を手中に収めた上さらに、村上水軍をも味方につけ勝利しました。

※2 毛利元就:戦国時代の武将。毛利氏の12代当主。現在の広島県など、中国地方で活躍しました。

※3 陶晴賢:戦国時代の武将で、大内氏の家臣。「晴賢」の前に名乗っていた初名は陶隆房(すえたかふさ)。

信長とも対戦! ライバル・九鬼水軍との激突

村上水軍は、あの人気者の織田信長とも戦をしています。石山本願寺(いしやまほんがんじ)の戦いで、毛利輝元(もうり てるもと)と組み毛利水軍の一員として本願寺への兵糧輸送を村上水軍が担ったのです。信長の水軍は九鬼水軍(くきすいぐん)でした。九鬼水軍とは、三重県尾鷲市九鬼を本拠とし、伊勢・志摩を中心に活躍した水軍。村上水軍最強のライバルは、この九鬼水軍です

1576(天正4)年の、毛利氏VS織田氏の第一次木津川口の戦いで、村上水軍と九鬼水軍が激突します。この戦で勝ったのは、信長方ではなく、炮烙(ほうらく)という手榴弾と火矢で、敵船を焼き払った村上水軍でした。

第一次木津川口の戦いのイメージ画

第一次木津川口の戦いのイメージ(画・香川元太郎/村上海賊ミュージアム蔵)

この敗北により信長は、火に負けない鉄の船を作るよう九鬼水軍の頭・九鬼嘉隆(くきよしたか)に命じています。その後迎えた第二次木津川口の戦いでは、鉄で甲装し大砲を搭載した巨大な安宅船(あたけぶね)に適わず、村上水軍は敗走したのです。

時代の変化|村上水軍に忍び寄る衰退の足音

第二次木津川口の戦いのあと、海賊衆たち独自の活動はあまり見られなくなりました。水軍内で紛争が勃発し、次第に勢力が衰え始めます。さらに、豊臣秀吉政権下で、刀狩り(かたながり)と同年の1588(天正16)年、「海賊禁止令」が出されます。これにより海賊衆に生き方の選択が迫られました。それは次の三択でした。

①豊臣氏に従い大名となる
②豊臣政権の大名の家臣となる
③武装を放棄し、百姓になる

これは刀狩りと同じく、豊臣政権への反抗心を削ぐためのもので、海賊衆の一揆を阻止するのが目的でした。それまで村上水軍が生活の糧としていた、海の通行税の徴収も廃止となりました。海賊衆もお手上げで、村上水軍をはじめ日本の海賊たちは姿を消していきました。

戦国大名の元で武家に匹敵する勢力を有し、美しい瀬戸内海を守り続けた村上水軍。彼らは、大名たちから一目置かれ恐れられていた存在だったことが分かります。
次からは時を遡り、村上水軍の始まりや海の武士たちの隆盛をご紹介していきましょう。

3.物語はここから|水軍と村上氏の起源

瀬戸内の海の武士団はこうやって始まった

平安時代末期から鎌倉時代にかけて成長した海の武士団の頭、それは河野氏でした。河野氏は元々伊予(=現在の愛媛県)の土着民で、伊予水軍の将として名を知らしめます。1180(治承4)年、源頼朝が伊豆で挙兵したときに、河野通清(かわの みちきよ)と河野通信(かわの みちのぶ)親子も兵を挙げ、源義経に従い平家討滅の源平合戦で武功を挙げたのです。

この河野氏が鎌倉時代中期の瀬戸内で最大規模となり、河野水軍と呼ばれていました。そして当時の村上水軍は、河野水軍の配下だったのですが、従属関係にはなく独立体勢を構築しています。

村上水軍はいつからいる?

藤原純友の乱で歴史の舞台に登場

村上水軍が歴史上登場したのは、瀬戸内海が西日本の経済と交通の大動脈となっていた平安時代中期。藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)や平安時代末期の源平合戦(げんぺいかっせん)の頃からです。

「藤原純友の乱」とは、伊予の国司だった藤原純友が、海賊を率い朝廷に蜂起した乱です。この乱で村上水軍が関わる経緯をお話ししましょう。純友は朝廷から瀬戸内海の海賊鎮圧の命を受け活躍していたのですが、いつしか純友自身が海賊の頭となっていました。

そして海賊の頭と化した純友への追討命令が、朝廷より源経基(みなもとの つねもと)に下ります。それに従った、河野好方(こうの よしかた)率いる300隻が、村上水軍の案内で純友軍を討伐したとの記録があります。

藤原純友の乱の関係図

ちなみにですが、同時期に関東では「平将門の乱(たいらのまさかどのらん)」(※4)が起きています。「平将門の乱」と「藤原純友の乱」は、年号から「承平・天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)」と総称されています。
源平合戦では前出の通り、村上水軍は河野水軍の配下として活躍したのです。

信濃村上氏とつながりがある?

のちの村上水軍は、3つの村上家が3つの島を根拠地として活動していましたが、元々はひとつの家で、河内源氏(かわちげんじ)(※5)の庶流、信濃村上氏(しなのむらかみし)(※6)を起源とする説が有力視されています。村上という苗字は、信濃国更級郡村上郷(しなのこくさらしなぐんむらかみごう)の地名が由来のようです。

信濃村上氏の家系は、南北朝時代に南朝方の武将として村上義弘(よしひろ)が活躍したことで知られていますが、系譜については謎が多くあります。村上義弘没後に信濃村上氏が伊予に移住したという史料があり、これが村上家の始祖となったとされています。

※4 平将門の乱:平将門が領地を巡る一族との私闘の末に、939年に朝廷への反逆へと発展させた関東での乱

※5 河内源氏:現在の大阪府の一部である河内国(かわちのくに)に根拠地を置いた、清和源氏の一流

※6 信濃村上氏:村上為国を祖とする。河内源氏の庶流とされるが、出自は諸説ありはっきりと確定していない
村上氏の系譜(一説)

4.村上三家がたどった道|隆盛とその後

【因島村上水軍】作った砦はあちらこちらに

因島水軍城の隅櫓

因島水軍城の隅櫓(すみやぐら)(写真:おのみちや

はじめは山名氏、そして大内氏についた因島村上水軍

村上吉豊(むらかみ よしとよ)を祖とする因島村上氏(因島村上水軍)は室町時代から因島に根を張り、海賊として勢力を拡大しています。備後守護の山名(やまな)氏と結び、遣明船(けんみんせん)の警護をしていました。しかし、やがて中国地方で大内(おおうち)氏(※7)が有力となると、山名氏を見切ってさっさと大内氏に鞍替えしています。

因島村上氏五代当主・村上尚吉(なおよし)は、大内義隆(よしたか)(※8)から備後鞆の浦の地を拝領しています。そして村上尚吉は、三男の村上亮康(すけやす)に鞆の浦港の大河島城(だいがしまじょう)を与えました。この村上亮康は、因島村上氏からさらに分家した庶流・備後村上氏の祖となっています。

やがて毛利氏とともに長州へ

その後毛利氏が台頭すると、因島村上氏は毛利氏につき運命を共にしています。室町幕府が滅び織田信長に追われた足利義昭(あしかがよしあき)は、毛利氏を頼り鞆の浦に滞在します。その際村上亮康は警護にあたり、足利義昭の直臣となりました。

天下分け目の戦い・関ヶ原合戦後は、毛利藩が長州(現在の山口県)へ移ったことにより、因島村上氏も長州に移ります。村上亮康の孫・村上元充(もとみつ)は、現在の山口県防府市で毛利藩御船手組頭(おふなてくみがしら)七人のひとりとなり、後は世襲しながら明治に至ったようです。

「水軍まつり」の小早レースのようす

広島県尾道市・因島では村上水軍にちなみ、毎年「水軍まつり」を開催。村上水軍が使用した「小早」と呼ばれる船を使ったレースが行われます(写真:おのみちや

各地に残る因島村上氏の城跡

因島村上氏はあちらこちらに砦を構築しています。具体的には長崎城(ながさきじょう)、青木城(あおきじょう)、青陰城(あおかげじょう)、そして関所の美可崎城(みかざきじょう)があります。ただ残念ですがこれらは水軍の城ではなく、戦国中世の山城跡という位置づけです。

今に残る因島村上水軍ゆかりのスポットには、因島村上氏の菩提寺である因島の金蓮寺(こんれんじ)や、因島水軍城などがあります。
因島・金蓮寺にある因島村上氏の墓所

因島・金蓮寺にある因島村上氏の墓所(写真:おのみちや

※7 大内氏:鎌倉時代から現在の山口県の東部・周防(すおう)地方で実力を握っていた一族

※8 大内義隆:戦国時代の武将。大内氏の16代当主。義隆の時代に大内氏の領土は最大となり、山陰・山陽・北九州を支配下に置いていました

【来島村上水軍】戦国期には毛利軍で活躍

愛媛県今治市の海に浮かぶ来島

愛媛県今治市・来島(写真:Yoshinori Okada/PIXTA)

一時は村上三家から分裂!

来島村上氏(来島村上水軍)は、村上吉房(よしただ)が祖です。来島は村上水軍が拠点とした三島の中で、最も四国本土に近い位置にあります。村上吉房は瀬戸内海で最難所とされる、来島海峡の要衝・来島に城を構えます。

戦国期は、因島村上水軍と能島村上水軍は、安芸の小早川氏につくも、来島村上水軍は伊予の河野氏につきました。やがて河野氏の勢力が衰えると、縁戚関係にあった毛利氏に救われ、毛利氏配下として活躍しています。

来島通総(みちふさ。村上通総とも)(※9)の時代に、織田信長が毛利氏の勢力圏に攻め入る「中国征伐」(※10)が起こります。信長陣営にいた秀吉は毛利水軍分裂工作を行い、来島村上氏は村上三家から離反。

来島村上氏は、毛利氏と因島村上氏、能島村上氏から猛攻撃され、当主の通総は、来島城を捨て脱出。一時秀吉のもとへ逃げることになります。その後秀吉と毛利氏とが和睦し、来島通総は来島に復帰します。

秀吉に取り立てられ大名に

秀吉の四国征伐(※11)では、毛利軍の先鋒として伊予に猛攻撃を仕掛けました。その恩賞として秀吉から伊予・風早の鹿島城(かしまじょう)と恵良城(えりょうじょう)の二城と、1万4000石を拝領し、村上三家の中で唯一の豊臣取立大名となります。簡単に言うと、伊予風早郡の大名になったわけです。他の二家は、毛利の家臣となっています。

そして、来島城は廃城となり、その後の朝鮮出兵で、来島通総とその兄・来島通之(みちゆき)は朝鮮で討ち死にしました。

来島通総の次男は九州の新天地へ

関ヶ原合戦では、来島通総の次男・来島康親(やすちか)は西軍から東軍に転身するも、伊予は小早川氏が治めることになったために康親は伊予の領土を失い、代わりに大分県玖珠町に森藩陣屋地に移封されました。この時に森藩が立藩されています。ですが、海のない豊後国森(森藩)についていく家臣団は少なかったとされています。

伊予に残った来島村上氏の家臣団は、塩田開発や海運・造船で生き残り、現在の今治市の礎を築いたそうです。また、森藩を治めた来島村上氏は、十代260年を乗り切り、幕末を迎えました。町の人たちは今でも「日本一小さな城下町」と語っています。

船で上陸できる来島城跡

来島村上氏が拠点とした来島城は島全体が城という作りです。現在も石垣などが残っており観光が可能です。定期船も運行しているため訪れてみてはいかがでしょうか。

愛媛県今治市の海に浮かぶ来島

来島へは愛媛県今治市の「波止浜港」から定期船が運航しています(写真:村上海賊ミュージアム)

※9 来島通総/村上通総:通総が村上姓から来島姓へと改姓したのは簡単な理由で、秀吉が通総を可愛がり、ことあるごとに「来島、来島」と呼んだため

※10 中国征伐:1577(天正5)年に織田信長が天下統一の一環として、宇喜多氏、毛利氏の勢力圏である中国地方を攻めた戦い。信長が本能寺の変で横死するまで6年に渡り繰り広げられた。信長の死後、明智光秀の謀反を知った秀吉は信長の仇討ちに向かうため、敵である毛利とすぐに講和を成立させます。秀吉が全軍を引き連れて岡山から京までの約230kmを10日で取って返した「中国大返し」は有名な話となりました。

※11 四国征伐:1585年(天正13年)に行われた秀吉と長宗我部元親の戦い

【能島村上水軍】最も海賊的だったヤバい集団!

村上武吉・村上景親の陣羽織

村上武吉・村上景親の陣羽織(写真:村上海賊ミュージアム)

村上三家の宗家だった

能島村上氏(能島村上水軍)は、尾道から今治辺りを点々と連なる島々の中心辺りを支配し、村上三家の中で最も海賊らしい集団だったと言われています。能島村上氏は村上三家の宗家だったとも言われており、特に独立性が強かったようです。

当時を象徴する海賊行為では、大内義隆を討った陶晴賢の軍船が上関(現・山口県の上関海峡)が通航した際の出来事があります。陶氏が関銭を払わず上関を突破しようとしたとき、そんな行為は許せないと、村上武吉(能島武吉)はすぐに三島村上水軍を総動員し、安芸蒲刈で陶氏を撃破しています。

瀬戸内海の急潮流

瀬戸内海は一見穏やかですが潮の流れが激しいのが特徴。村上水軍は関銭をもらう代わりに海を案内していました(写真:俺の空/PIXTA)

武吉の時代に迎えた最盛期

そんな能島水軍は村上武吉の時代に最も栄えました。宣教師ルイス・フロイスは、村上武吉のことを「日本最大の海賊」と称しています。村上武吉は、和田竜著『村上海賊の娘』でも有名ですね。

村上武吉は、来島村上氏の村上通康の娘と結婚し、塩飽(しわく)水軍(※12)とも連携を取り活躍。その勢力は瀬戸内海を通り越して北九州にまで及んでいたようです。

毛利元就 VS 陶晴賢の厳島の戦いでは、前述の通り、能島村上水軍は毛利氏方につき、陶氏方の周防屋代島(すおうやしろじま)水軍(※13)や宇賀島(うかしま)水軍(※14)らと対決。その後に起きた門司城攻防戦でも、毛利方として北九州の大友氏と戦ったのです。

海の上ではライバルも多く、村上海賊と同時代に瀬戸内の海で名を轟かせた塩飽水軍や真鍋水軍(※15)など、他の海賊たちと対峙し戦うこともあれば、連携を取り助け合うことも多々ありました。

毛利氏とともに数々の戦いを繰り広げる

1570(永禄13)年に、村上武吉は毛利氏から離れ、大友氏に走ったために、小早川水軍や来島村上水軍、因島村上水軍に能島城を包囲された能島城合戦では、孤立無援となってしまうも、毛利氏と大友氏が和睦したときに、能島村上氏は毛利氏に帰属。各地を転戦します。

織田信長と毛利氏が戦った「第二次木津川口の戦い」では、能島村上水軍は小早川水軍と手を組み指揮を執ります。しかし織田信長の九鬼水軍の鉄鋼船6隻に大敗し、大坂湾での制海権を失う結果となりました。

豊臣秀吉の九州平定後の1587(天正15)年、小早川隆景(たかかげ)が現在の福岡県北西部にあたる筑前に国替えとなると、現在の広島・竹原の鎮海山城(ちんかいさんじょう)にいた村上武吉も息子・村上元吉(もとよし)と村上景親(かげちか)らともに、小早川隆景に従い筑前の名島城(なじまじょう)に移っています。この翌年に「海賊禁止令」が発令され、海賊衆は終焉を迎えました。

村上景親の肖像画

村上景親肖像画(提供:村上海賊ミュージアム)

日本最大の海賊・村上武吉の晩年と息子たち

晩年、村上武吉は周防屋代島(現・山口県屋代島)へ戻り静かに余生を送っています。次男の村上景親と孫の村上元武(もとたけ)は分家をして、長州藩御船手組として仕えています。村上武吉の嫡男・村上元吉は関ヶ原合戦で、東軍の伊予松前城攻撃でだまし討ちにあい、討ち死にしています。

※12 塩飽水軍:香川県と岡山県の間に位置する塩飽諸島で、戦国時代に活躍していた水軍

※13 周防屋代島水軍:周防国の屋代島(現・山口県周防大島町)の沖合にある浮島を本拠地にしていた水軍

※14 宇賀島水軍:尾道水道にあった宇賀島(現・広島県尾道市)の岡島城を本拠地としていた水軍

※15 真鍋水軍:戦国武将・真鍋貞友が率いた水軍。織田信長に属していました

5.戦うだけではなかった! 近年「村上海賊」と呼ばれる理由

日本の「海賊」≠ 西洋の「Pirates(パイレーツ)」

この記事では筆者が馴染んだ呼び方の「村上水軍」でご紹介していますが、江戸時代までは「村上海賊」と呼ばれていました。もちろん、古文書などにも「海賊」と表記されています。明治以降に軍隊が組織されてから、水軍という名前が誕生したのです。この「水軍」は、のちの「海軍」の前身になります。

文化庁が認定する日本文化遺産では「村上海賊」と呼称するなど、近年は「海賊」と呼ぶことが増えてきました。なぜ村上海賊という呼び方が増えているのか。それは日本の海賊にはさまざまな役割があり、「水軍」はそれらの役割の一部にすぎない、という考えが広まってきたからです。

村上海賊は戦で戦う「水軍」でもありましたし、海峡などで通行料を受け取る代わりに海を案内する「水先案内人」「ボディーガード」でもありました。理不尽に船を襲い金品を奪う西洋の「パイレーツ」とは異なり、独自のルールがある集団だったのです。

村上水軍役割・特徴一覧表

海賊はいつも戦っているわけではなく、さまざまな活動を行っていました(提供:村上海賊ミュージアム)

教養と文化を持ち合わせていた

「パイレーツ」と異なるとは言え、海賊と呼ぶと物騒なイメージが拭えない方もいらっしゃるでしょう。しかし実は、村上水軍の家系図を見ると、元は清和源氏(せいわげんじ)頼信流と伝えられています。他には、村上天皇の皇子・具平(ともひら)親王を祖とする系図が、村上水軍城(因島水軍城)にありました。

実は昭和時代の500円札の肖像だった岩倉具視(いわくらともみ)の岩倉家も、この村上源氏の嫡流です。由緒正しい家柄なのですね。大三島の大山祇神社に奉納された連歌の詠み手の中には、村上海賊の武将の名もあるなど、教養と文化を持ち合わせた一族だったようです。

連歌を詠む海賊たちのイメージ画

連歌を詠む海賊たち(画・香川元太郎/村上海賊ミュージアム蔵)

三家に分かれ、各地に散りながらも続いてきた村上家。ちなみに現在も、因島はじめ瀬戸内海沿岸には村上姓の方が大勢いらっしゃいます。もしかしたら、あなたも村上源氏や村上水軍の末裔かも……。

6.村上水軍の関連スポット

しまなみ海道での観光では、サイクリングが楽しみのひとつですが、日本の海賊の歴史を辿る歴史的探訪も外せないですよね。しまなみ海道沿線には、往時の村上水軍に関する史跡が残っています。

2016年4月には『「日本最大の海賊」の本拠地:芸予諸島~よみがえる村上海賊「MurakamiKAIZOKU」の記憶〜』として文化庁・日本遺産に認定されました。ここでは瀬戸内海の海賊・村上水軍ゆかりの観光スポットをご紹介します。

海賊を知るなら【今治市 村上海賊ミュージアム】

村上海賊ミュージアムの村上家記念室

村上海賊ミュージアムの村上家記念室(写真:村上海賊ミュージアム)

全国初の海賊をテーマにしたミュージアムです。
2020年4月1日に「今治市村上水軍博物館」から「今治市村上海賊ミュージアム」に名前が変わりました。能島村上氏の末裔に伝わる古文書をはじめ、美術工芸品や能島城跡の出土品などの実物資料や模型やジオラマ、映像などを使い、村上海賊を紹介しています。

無料で鎧や小袖などの試着も楽しめます(※2022年9月現在、新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から試着は休止中。有料でVR体験を実施しています)。

【今治市 村上海賊ミュージアム 基本情報】
住所:愛媛県今治市宮窪町宮窪1285
時間:9:00〜17:00(入館は16:30まで)
休館:月曜(祝日の場合は翌日休)、年末年始
料金:一般大人310円
公式サイト:今治市 村上海賊ミュージアム

大満足の【潮流体験・観光船・能島水軍】

「能島水軍 潮流体験」

船に乗り激しい潮流の中を進む「能島水軍 潮流体験」

村上水軍の歴史を知ったら、やっぱり村上水軍の将に成りきる潮流体験は外せないですよね。500年前と変わらず激しい潮流を肌で感じる、40分の能島水軍体験は迫力満点! なんと、渦巻く潮流は最大10ノット(約18km/h)。

能島城跡→船折瀬戸→見近島→伯方・大島大橋を巡る、観光船でのクルージングを村上水軍の歴史ロマンと瀬戸内海の自然を感じながら、海賊気分でどうぞ!

【潮流体験・観光船・能島水軍 基本情報】
住所:愛媛県今治市宮窪町宮窪1293-2
時間:9:00〜16:00(1時間ごとに運航)
定休:月曜
料金:一般大人1200円
公式サイト:潮流体験 観光船 能島水軍

因島水軍に陶酔!【因島水軍城】

因島水軍城に展示されている「大阿武船」

因島水軍城に展示された「大阿武船」(写真:おのみちや

瀬戸内海を見下ろすように立つ因島水軍城。1983(昭和58)年に、水軍資料館として歴史家監修のもと築城された城です。城に上がる道や入り口、城の刈り込みにまで、丸に上の字が入った因島村上水軍の家紋でデコられています。この家紋は今や村上水軍のシンボルです。

館内には因島水軍にゆかりのある武具や遺品が展示されています。館内でひときわ眼を引くのは、12分の1サイズの「大阿武船(おおあたけぶね)」の勇壮な模型です。小早川隆景より拝受した、広島県の重文「白紫緋糸段威腹巻(しろむらさきひいとだんおどしはらまき)」も一見の価値ありです。

【因島水軍城 基本情報】
住所:広島県尾道市因島中庄町3228-2
時間:9:30〜17:00
定休:木曜、12月29日〜1月1日
料金:観覧料大人330円
公式サイト:尾道市 因島水軍城

海賊たちの信仰を集めた【大山祇神社】

大山祇神社

大山祇神社の拝殿。国の重要文化財にも指定されています(写真:kurutanx / PIXTA)

大三島は、古くは『御島(みしま)』と呼ばれ、日本総鎮守の大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)が鎮座する神の島です。伊予国の一宮とされ、海の安全を守る神様として古くから海賊たちからも信仰を集めています。もちろん、村上海賊たちもここに訪れ、海の安全や武運を祈願していました。

【大山祇神社 基本情報】
住所:愛媛県今治市大三島町宮浦3327
時間:日の出頃〜17:00
公式サイト:大山祇神社

しまなみ随一の絶景【亀老山展望台】

亀老山展望公園からの眺め

亀老山展望公園からの眺め(写真:いよ観ネット

亀老山展望台(きろうさんてんぼうだい)は、大島の南端に位置し、瀬戸内海国立公園指定の亀老山展望公園内にあります。世界初三連吊橋「来島海峡大橋」と日本三大急潮のひとつ「来島海峡」の潮流を望めるビューポイントです。

来島海峡は、鳴門海峡・関門海峡と並び、日本三大急潮に数えられています。瀬戸内海で最難所とされた、往時の様子を頭に描きながら絶景を楽しんではいかがでしょう。

【亀老山展望台 基本情報】
住所:今治市吉海町南浦487-4
時間:24時間入園自由
公式サイト:今治市 亀老山展望公園

7.村上水軍にまつわる作品

村上竜 著の長編大作『村上海賊の娘』

『村上海賊の娘』の書影

あらすじ

『村上海賊の娘』(新潮文庫)は、『のぼうの城』(小学館)や『忍びの国』(新潮文庫)を執筆した和田竜氏の長編大作です。織田信長が、西に勢力を伸ばし始めていた頃、瀬戸内海を生きる海賊衆がいました。海賊と呼ばれ恐れられ、瀬戸内の制海権を牛耳っていたのです。この小説の主人公は、村上水軍の武将・村上武吉の娘「景(きょう)」。

彼女は醜女で乱暴者でした。毎日海を眺め、船に乗り仲間たちと海賊行為をしたいと、憂鬱な日々を過ごしていた。そして、女は船に乗れないことを知りつつ、掟を破り海へと……。信長時代の歴史を背景に「景」の生き様を楽しめる小説です。

白石一郎 著の海洋時代小説『海狼伝』

『海狼伝』の書影

あらすじ

『海狼伝(かいろうでん)』(文春文庫)は、白石一郎著の第97回直木賞受賞作品です。日本の海賊の生態を活写した、戦国ファンも納得の小説です。対馬で生まれ育った青年・笛太郎が、航海中に村上水軍に捕まり、その手下となります。

出会いと別れを繰り返し、「海の狼」として成長していく笛太郎。しかし海賊になりきれない。そんな笛太郎の心の格闘も見逃せません。夢とロマンに酔いしれる、海洋冒険時代小説の最高傑作です。海賊船の船大将に成長した笛太郎を描いた続編『海王伝(かいおうでん)』(文藝春秋)もぜひ。

村上水軍の足跡はいまも瀬戸内に

千差万別の楽しみ方ができる、しまなみ海道。かつて、そこには日本最大の海賊と称された「村上水軍」がいました。彼らが守り抜いた瀬戸内の自然を感じながら、村上水軍の足跡を辿る観光を満喫してはいかがでしょう。