この人に聞きました
1. ほおずき市ってなんだ?
2. 愛宕神社のほおずき市はいつ?|「千日詣り」の日とその意味
3. 浅草寺のほおずき市はいつ?|「四万六千日」の日とその意味
4. 浅草寺のほおずき市のはじまり
5. ほおずき市と浅草今昔物語
戦後の浅草
いつもの境内と「ほおずき市」の境内
ほおずきを鳴らすとお嫁に行けなくなる?
値段交渉で遊ぶ

境内に並ぶオレンジの実と店の呼び声。ほおずき市といえば、本格的な暑さになる少し前、7月の風物詩です。

ほおずき市は各地で開かれていますが、有名なのは愛宕神社の浅草寺。東京都港区の愛宕神社では毎年6月23日・24日、台東区の浅草寺では毎年7月9日・10日に開催され、露店が出て境内は賑わいます。

この記事では、ほおずき市をもっと楽しめる、ほおずき市の歴史や、今昔物語をお届けします。

協力:浅草観光連盟
※本記事は2023年6月に行った取材をもとに制作しております。諸事情により、最新の状況と異なる場合があります
※2024年6月、一部情報を更新しました

この人に聞きました

浅草観光連盟 冨士滋美さん
一般社団法人浅草観光連盟会長。浅草神社総代。東京都台東区剣道連盟会長。このほかにも肩書きのたくさんある方ですが、気さくに質問に応じてくださいました。着流しに羽織姿がよく似合います。浅草育ち。

1. ほおずき市ってなんだ?

浅草寺のほおずき市

浅草寺のほおずき市

ほおずき市とは、名前の通り、ほおずきを売る市のこと。鉢植えのほおずきが露店で売られ、訪れた人はほおずきを買ったり、食べ歩きをして楽しむ夏の風物詩です。

東京では港区の愛宕神社(あたごじんじゃ)、台東区の浅草寺(せんそうじ)が有名。このほか東京都新宿区の神楽坂で開かれるもの、埼玉県蕨市(わらびし)で開かれるもの、福島県会津若松市で開かれるものなどがあるようです。

愛宕神社・浅草寺では毎年日程が決まっていて、それは普段よりもご利益があると言われている日です。詳しくは後述します。

買ったほおずきは吊るして飾ると粋

吊るされているほおずきの鉢植え

ほおずきは購入後、家の玄関先に吊るすことが多いのだそう

浅草観光連盟の冨士さんによると、ほおずき市で買ったほおすきの鉢植えは、地元では吊るして飾ることが多いのだそう。

たいてい、ほおずきと一緒に風鈴がついてくるので、玄関先などにほおずきと一緒に吊るしておくと、風が吹くたびに「チリンチリン」と涼しげな音が響きます。ほおずきの実のオレンジと、風鈴の音が夏らしく、風情がありますよね。

2. 愛宕神社のほおずき市はいつ?|「千日詣り」の日とその意味

東京・港区の愛宕神社のほおずき市は毎年6月23日・24日に開かれます。

愛宕神社は火産霊命(ほむすびのみこと)という火の神様を祀る神社。火産霊命は愛宕権現とも呼ばれる神様で、24日が縁日です。6月の縁日はその中でも、「千日分のご利益を授かれる日」とされていて、「千日詣り」の日と呼ばれています。

東京・港区の愛宕神社では、社殿前の茅の輪(ちのわ)をくぐると千日分のご利益を授かれるといわれています。境内にもともとほおずきが自生しており、それが子どもや女性の病気に効くとされ、ほおずき市が開かれるようになったそうです。

【公式サイト】
●愛宕神社のほおずき市:祭典行事

3. 浅草寺のほおずき市はいつ?|「四万六千日」の日とその意味

浅草寺では毎年7月9日・10日にほおずき市が開かれます。

浅草寺は聖観世音菩薩(観音様)を本尊とするお寺です。観音様の縁日には、室町時代頃から「功徳日」という日があり、これは通常よりも多くの功徳を得られる日とされています。

浅草寺では現在、年に12回の功徳日があり、7月9日・10日はその中でも最大の日。「四万六千日(しまんろくせんにち)」といわれ、この日にお参りをすると4万6000日分の功徳があるとされています。

ちなみに、4万6000の数字の出どころははっきりしておらず、「一生分(365日×126年=約4万6000)」を意味しているという説や、「四六時中」からとったという説などがあるそうです。

【公式サイト】
●浅草寺のほおすき市:四万六千日・ほおずき市

4. 浅草寺のほおずき市のはじまり

売れ残ったほおずきが飛ぶように売れた

ほおずきのがくと実

ほおずきの袋のようになっている部分は「がく」。中には実が入っています

ほおずき市が最初にはじまったのは東京・港区の愛宕神社でした。もともと愛宕神社の境内にはほおずきが自生していて、それを飲めば、子どもの病気に効いたり女性の病気に効くといわれていました。こうして愛宕神社では千日詣りの日に合わせて、ほおずきを売る市が立つようになりました。

ところがあるとき、愛宕神社のほおずき市の日に大雨が降ってしまったそうです。用意していたほおずきがたくさん売れ残ってしまい、どうしたものかと考えた末、「浅草寺の『四万六千日』はまだこれからだから、そこで売ればいくらかは捌ける」と思いついた人がいました。

いざ浅草寺の四万六千日でほおずきを売ってみたところとても人気で、以来、浅草寺でもほおずき市が立つようになった、という話が残っているそうです。

浅草寺のほおずき市は、100万人単位で人が訪れる行事で、お正月の初詣、夏の三社祭(さんじゃまつり)、年末の羽子板市と並び、浅草寺の行事の中では大きなものになります。

5. ほおずき市と浅草今昔物語

浅草寺のほおずき市

浅草寺ほおずき市は、毎年大体同じ人・団体が露店を出しているそう

地元の人にとっては恒例行事のほおずき市ですが、筆者をはじめ、東京都外の出身者や、東京西部の人の中には、あまり馴染みがない人も多いのでは。どうせ遊びに行くなら、地元っ子を気取って歩いてみたいものですよね。

浅草育ち、粋な下町っ子の浅草観光連盟会長・冨士さんに、「地元の人にとってのほおずき市」「昔はどんな様子だったのか?」など、浅草寺とほおずき市にまつわるお話を聞いてみました。

戦後の浅草

1962年12月の浅草

戦後17年、1962年12月の浅草。この頃には建物が多く建ち、街が賑わっていたようです(写真提供:東京都)

冨士さん(以下同):
「生まれたのが昭和23(1948)年で戦争から3年目の年でした。このあたり(浅草)は昭和20(1945)年の大空襲で全部焼けてしまったので、私は疎開していて、浅草に戻ってきたのが2歳か3歳の頃。空襲の瓦礫が片付いて、みんなが家を建てはじめていた頃でした。

仲見世はあったけれど、家なんてほとんどなくて。大工さんが打つ金槌の音がよく聞こえる町でした。」

1968年11月の仲見世通り

1968年11月の仲見世通り(写真提供:東京都)

■■

「ほおずき市は物心ついた頃からありました。浅草寺境内なんてのは、私らにとっちゃ遊び場だから、わざわざ出かけるものじゃなくて、通り道みたいなもの。

今は保育園やなんかの送り迎えも、みんな自転車に子どもを乗せて送り迎えしますが、昔は『店忙しいんだからお前らで行ってこい』なんて言われていました。

それで仲見世のまんなかを歩いていくと、脇の店から「店の邪魔だから裏から行け」って言われて裏の通りを歩いて行く。親からは『もしどうしようもなく怖い人がいたら、どこの店でもいいから逃げ込みな』と言われてたけれど、逃げ込むようなことなんてなかったですね。」

いつもの境内と「ほおずき市」の境内

1962年12月の浅草寺雷門

1962年12月の浅草寺雷門(写真提供:東京都)

「当時はまだ浅草寺本堂はありませんでした。雷門も宝蔵門も、五重塔もなかった。今は本堂の左側に淡島堂というのお堂がありますけれど、あれが当時は仮本堂でした。

境内はとにかく空き地だから、普段は怪しげな商売をしている人がいっぱいいまして。たとえばよく知られているのは『ガマの油売り』。包丁を腕に当てて切って見せると血がタラタラと出てくる。それに油をベタッと塗ると血が止まって『ほら止まったろ』なんて。

それから本を売る人もいましたね。『この本を読むと剣の達人になれます』『いろんな武術ができるようになります』みたいな本ですね。売り手が『瓦割りなんて朝飯前。ほら、ポンと叩くとパカっと割れちゃう』って嘘みたいな話をしているんだけど、それに乗っかる客もいましてね。

『この本読むとそうなるのかね。へえ、じゃあちょっと見せてくれ』と言って本をめくる。『試しにそれ(瓦割り)やってみるか。エッ、割れちゃったよ』なんて、本当に瓦が割れたんですね。

ところが私らは毎日のようにそこを通っていましたので、翌日もそこへ行くと、小屋の影に昨日の売り手と瓦を割った客がいて、二人して瓦にコンコンコンコン……って、ヒビを入れていました。客はサクラで、瓦割りはインチキだったわけです。私らは顔を覚えられていたので、『お前たち、何も言っちゃいけねえぞ』って目で言われて。そんなのを見て楽しんでいました。」

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「それから万年筆売り。あるときたくさんの万年筆を山のようにして置いて、その前にメソメソ泣いているやつがいて。そこへおじさんがやって来て話しかけるんです。

『どうしたの若いの』
『いや勤めていた工場が火事になっちゃって。給料がもらえなくてしょうがないから、代わりにこの煤(すす)だらけになった万年筆持っていけって言われてもらってみたはいいものの、お金はないし困ってるんです』
『どれ貸してみろよ。あれ、書けるじゃねえかよ。みんな買ってやろうよ』

それでみんな万年筆を買っていくんだけど、家に帰って試すとちっとも書けやしない。だけどみんな最初から分かっているんです、インチキだって。分かったうえで、ときどき遊びで買ってやったりしていました。

浅草寺境内には当時、とにかくそういう怪しい商売をする人たちがたくさんいました。たまにほおずき市が立つと『邪魔だ、どけどけ』と言われて彼らはどこかへ消える。そしてほおずき市が終わると、またゾロゾロゾロっと戻ってくる。そんな感じでしたね。」

ほおずきを鳴らすとお嫁に行けなくなる?

「市では普通のほおずきと、センナリホオズキ、それから子ども頃はウミホオズキというのが売っていましたね。ウミホオズキは海藻の一種です。

普通のほおずきは実にちょこっと穴を空けて、ふくらませてから軽く噛むとキュッキュと音が鳴る。

今ではそんなことはないけれど、昔はほおずきを鳴らす人というのは、堅気の女の人じゃなくて、水商売をしている人が多かったそうです。うちの母(※筆者注:冨士さんのお母さまも浅草出身)から聞いた話では、若い頃にほおずきを鳴らしたりすると『あんた、お嫁に行けなくなっちゃうよ』とか『そんな品の悪いことするんじゃないよ』って叱られたそうです。

そんなふうに言われていたそうですが、言い方を変えれば、ほおずき鳴らしは小粋な女の人がやるような遊びだった、ということですね。」

値段交渉で遊ぶ

「市で売っているほおずきは、今は定価売りだから誰が買っても同じ値段ですが、40〜50年くらい前までは値段がみんな違っていたんです。

そうすると買う側は値切って、売るほうもそれに乗っかってやり取りをする。それが遊びみたいなものでした。

たとえばほおずき1株3000円だとしたら、客が『ちょっとこれから飯食わなきゃなんないから、500円残しときたいんだよ』とか言うわけですよ。

すると店の人は『そうかあ。じゃあこれでうまいもんでも食ってください』と言って2500円に負けてあげる。そしたら客は『そうかい、わりいな。ありがとね。これご祝儀』と言って店に500円をつける。

結局3000円で買うことには変わりないし、客もはじめから3000円で買う気でいるんだけど、みんなこんなふうに店と客とでやりとりするのを楽しんでいたんです。冬の浅草寺の羽子板市ではまだこんなやり取りは残っていますけどね。」

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「ほおずき市の規模は昔のほうがずっと大きいものでした。今は浅草寺の境内と本堂のほうでしかやっていないけれど、昔は境内の脇や、浅草寺の裏までずうっとほおずきの市が出ていて。昔は娯楽もなかったので、そういうのお祭りみたいなのがあるとみんな喜んで行ったんですね。露店が出て、呼び声が聞こえて。

今はだんだん露店も少なくなってきていますが、それでも100万人単位で人が訪れます。ここ2〜3年はコロナ禍の影響があり、訪問者数はいつもほど多くはありませんでしたが、今年(2023年)は活気が戻りそうです。」


Text/Edit:Erika Nagumo
Photo(特記ないもの):PIXTA

参考:四万六千日・ほおずき市 あさくさかんのん浅草寺祭典行事 愛宕神社