沖縄の伝統工芸品「紅型」とは
紅型の歴史
沖縄県内で伝統を受け継ぐ3つの工房へ
藤﨑紅型工房(名護市)
安里紅型工房(宜野湾市)
カタチキ(那覇市)
まとめ

海の色、空の色、花の色、山の色。南国沖縄では自然の色合いはどこまでも色濃く、鮮やかで、訪れる人びとを魅了してやみません。

沖縄でおよそ700~800年前から今に伝わる染物「紅型(びんがた)」には、沖縄がそのままうつしこまれたような鮮明で大胆な色彩が表現されています。現在でも多くの職人がその技術を受け継ぎ、守り続ける紅型という伝統工芸。

今回は、その魅力を探るため、沖縄県内にある3つの紅型工房を実際に訪ねてきました。紅型の裏側にある、歴史や文化、職人の想いをご紹介します。

沖縄の伝統工芸品「紅型」とは

「紅型(びんがた)」とは13世紀ごろ沖縄で生まれ、今に引き継がれる染め物のことです。

沖縄の豊かな自然を移し込んだような鮮やかな色合いと、独特の絵柄を持つ独自性の高い紅型は、京友禅や江戸小紋と並び、国内外で高く評価される伝統工芸品。沖縄の自然と歴史の流れのなかで育まれてきた、紅型の魅力に迫ります。

「染料」ではなく「顔料」を使い鮮やかな色合いを生み出す


沖縄を移しこむ紅型の着物(写真:安里紅型工房)

紅型の紅は「色彩」を、型は「模様」を指すとされています。

特徴的な鮮やかな色合いは、顔料と植物染料によるもの。

一般的に、繊維を染めるには染料が使用されます。染料は水や油などの溶剤に溶けるため、複数の色を混ぜ合わせることで、比較的簡単に新しい色をつくることができます。繊維にムラなく着染できますが、顔料に比べると色褪せや変色が起こりやすく、着色物の繊維に染みこませて染色を行うので、色がにじみやすいという欠点があります。


顔料をペースト状に練り、豆汁で溶いて色をつくる(写真:カタチキ)

しかし、紅型では通常繊維を染めるのに使われる染料ではなく、「顔料」で染色します。

顔料は水や油などの溶剤には溶けないもので、着色物自体に染みこまず、上に顔料がのった状態となります。そのため着色物の下地を覆い隠す効果もあり、また、色の諧調をはっきりと表現できます。また、染料は光に長い時間当てると色あせてしまいますが、顔料は耐光性・耐水性に優れています。


ゆうなの花が描かれた紅型(写真:藤﨑紅型工房)

海の色、空の色、花の色、山の緑の色など、すべてが鮮やかな南国の自然あふれる沖縄という土地。これらの自然を職人の感性で移しこみ表現する紅型は、顔料を使用することでより一層その独自性を高めているのです。

特殊な模様をつくる2つの手法

紅型の「型」は素朴で大胆なものや、細かく繊細なものなど多様なデザインですが、どれも沖縄の地が生んだ独特な模様です。これらの模様を作り出すのには、「型染め」と「筒描き(糊引)」という2つの方法があります。

型紙を利用する「型染め」の手法


「首里の町並み」を型染めで表現(写真:カタチキ)

図案となる型紙を布に当て糊を塗り、その後色(顔料)を差していきます。主には衣服類に使用されるのがこの型紙を使った紅型です。

フリーハンドで絵柄を生み出す「筒描き(糊引)」

もうひとつは筒描きや糊引(ヌイビチ)と呼ばれる、型紙を使用せずに円錐状の糊袋から糊を絞り出しながら生地に模様をフリーハンドで描いていく技法です。主に風呂敷や幕、タペストリーなどに使用されます。


円筒状の糊の袋から防塗糊を出して絵柄を描いていく(写真:安里紅型工房)

そのほか、藍や墨で染める紅型は特に藍型(イェーガタ)と呼ばれており、夏物の衣料として使用されています。


筒描き作品「松竹梅鶴亀」タペストリー(写真:安里紅型工房)

有名な染め物は、そのほとんどが絵柄を書く人、染める人と段階に分けて分業となっており、また効率的な染め方へと変わってきています。しかし紅型は昔と変わらず、今もなお職人がすべての工程を手仕事で行っています。そのため大量生産は行われておらず、大変希少価値の高い染め物でもあります。

紅型の歴史

紅型の起源は古く、13世紀~14世紀頃と言われています。
琉球王国の時代、主に王族や士族の衣装に紅型が使われており、一般の人が着用する物ではありませんでした。琉球王府は染屋を首里城の周りに置き庇護したとされています。


琉球王国時代は王族や士族の衣装に紅型が使われていた(写真提供:(一財)沖縄美ら島財団)

琉球王国は南国の小さな島の国であり、中国大陸などのアジア諸外国、日本本土それぞれと交易し、平和を保ってきました。400年以上続くこととなる琉球王国時代において、紅型はさまざまな文化に触れて影響を受け、中国的な華やかさや日本的な繊細さなど、染め物工芸の良いところを併せ持つこととなります。


中国皇帝使者を歓待する「中秋の宴」の様子(写真提供:(一財)沖縄美ら島財団)

明治時代に琉球王国がなくなったことをきっかけに、染屋が庇護を受けられなくなり、紅型も衰退の一途を辿っていくことに。

その後、第二次世界大戦での沖縄の地上戦によって多くの紅型は失われたものの、一部の型紙などが文化人・鎌倉芳太郎により日本本土で保管されていました。その型紙を使い、琉球王国時代から紅型を行ってきた職人たちが、紅型復興に尽力。紅型を愛する人びとの努力により、紅型はさらに多くの人びとに知られることとなり、現代では日本が誇る伝統工芸品の染め物に。

時代を超えて紅型は育まれ、守られ、継承されているのです。

沖縄県内で伝統を受け継ぐ3つの工房へ

沖縄県内にある3つの紅型工房を訪ねてみました。琉球王国時代に誕生した紅型を今に伝える職人たちの、紅型に対する思いやこだわりについてうかがいます。工房では見学や体験、商品販売も行っているので、ぜひ沖縄旅行の途中で立ち寄ってみましょう。

藤﨑紅型工房(名護市)


藤﨑紅型工房の様子。見学も可能

名護市の東海岸にある藤﨑紅型工房。紅型作家である藤﨑眞さんの工房です。

藤﨑さんは大学時代の研究で沖縄を訪れた際に名渡山愛擴氏に出会い、卒業後の昭和46年に名渡山氏に師事し、紅型の道に入りました。


紅型作家の藤﨑眞さん。気さくでやさしい方

戦後、米軍占領下の沖縄には、美術家たちが形成した生活共同体「ニシムイ美術村(ニシムイびじゅつむら)」がありました。1945年の沖縄戦で荒廃した沖縄の芸術・文化の復興拠点の役割を果たしたとされています。藤﨑さんはかつて「ニシムイ」に住み込みで働き、その熱量を目の当たりにし、「こんな小さな島なのに、沖縄はすごい」と感じたと話します。

戦後の当時は沖縄の焼物や紅型などの芸術家たちが熱気をもって集まり、語らい、復興に向けて動いていました。そのような時代に名渡山氏のもと、多くの経験を積むことになったのです。

藤崎さんは、紅型を復興させてきた名渡山氏に「お前のピンクは違うんだよ。見てみろ、沖縄の桜を。本土の桜の色と違って濃いピンクだろ」などと、色についてよく怒られたそう。師である名渡山氏に常に言われていたのは「土着を感じなさい」という言葉。さとうきびの収穫の時期には収穫を手伝うなど、沖縄の地を体感するように促されたといいます。

そんな中、昭和48年に名渡山氏のもとを離れ、1年間インド・ネパールへ旅に出ることに。そこで出会ったのは「ものづくり」の原点でした。


インド唐草文様の帯

特にインドで感じたものづくりの原点に通じる、沖縄の地が持つ魅力を改めて感じた藤﨑さん。

一度は帰ろうと考えていた故郷の神奈川県横須賀ではなく、インドからそのまま沖縄の名渡山氏のもとへ戻り、紅型の道へ本格的に進むこととなりました。


大胆な色使いも、美しくまとめあげ作品に

「沖縄の陽の光をはじくような色。沖縄の陽の光に耐えうる色。この紅型の色をその人の感性で見てほしい。きっとはまりますよ」と藤﨑さんは話します。名護市の東海岸にある藤﨑紅型工房は、海を見渡す高台にあり、豊かな自然に囲まれた場所。庭にある植物を見て、海の色を感じて作品を生み出しているのです。

工房ではショップで作品を購入できるほか、体験メニューも豊富に用意。前日までに予約をすれば、紅型の染色体験に挑戦できます。


紅型体験ではサコッシュ(左)やポシェット(右)などを作ることができる

安里紅型工房(宜野湾市)

宜野湾市に位置する「安里紅型工房」。こちらでは現在、1代目の安里和雄さんと2代目の昌敏さんが紅型づくりを行っています。今から約40数年前に和雄さんが紅型見習いをはじめ、その後工房を立ち上げました。

「若い世代へと紅型を普及していきたい」という思いから、宜野湾市出身で同級生のレゲエダンサー・I―VAN(アイバン)さんとともに、かりゆしウェアの商品開発なども行っています。


2代目の安里昌敏さん

現在は自ら職人のひとりとして紅型作りに尽力している2代目の昌敏さんですが、若い頃はキックボクシングの道を目指していたと話します。実力も十分に備わっていたものの、故障によって24歳でキックボクシングを引退。それを機に、父・和雄さんの工房へ入ることを決意しました。


昌敏さんが色づけをした作品。ゆうなの花

「親父のことが好きだったんです。自分が入ることで、工房がうまくいったらいいなと思いました」と当時を振り返ります。昔から工房の手伝いをしていたものの、本格的に工房へ入ったのは約13年前。13年経った今でも、「自分は紅型職人だ」と心から思えるまでに到達していないと話します。


父・和雄さんが結婚祝として昌敏さんの奥様へ贈った着物

「紅型では道具作りからはじまり、すべての工程を自分でしないといけない。分業ではないので、絵も色もすべて自分。どこまで絵を追求すれば良いのか、どこまで色ぬりを追求するのか。紅型では奥が深すぎて、まだまだ一番上が見えないですね」と昌敏さん。自らが1から10までの工程を担うことで、作品に思いが込めやすくなり、ストーリーが生まれるのだと教えてくれました。


筒引きの糊を乾かしているところ。和雄さん曰く「紅型職人は染め物の大工さん」

ひとつの芸術作品としてすべての工程を行うことで、職人としての思いをダイレクトに表現できるのが紅型の魅力のひとつなのでしょう。大量生産はできないものの、ひとつひとつ時間をかけ、思いを込めて作り上げることで、唯一無二の作品が出来上がるのです。

カタチキ(那覇市)


首里城の近くに位置する「カタチキ」

首里城の近くに佇む工房「カタチキ」。こちらを運営しているのは、この首里の地で生まれ育った2人の姉妹です。

姉の崎枝由美子さんが紅型を染め、妹の比嘉裕子さんが縫製を担当。首里城公園からほど近くの場所に工房を置き、作品づくりと作品販売を行っています。


伝統技法を守り受け継ぐ

姉の由美子さんはかつて紅型工房に勤めていたものの、恩師が亡くなり自身の技術で作品を制作していく環境が必要になってしまいます。ちょうどそのタイミングで、県外でスタイリストをしていた妹の裕子さんが沖縄に帰り、アドバイスをもらいながら作品づくりを始めたそう。次第にいろいろなところから声がかかるようになり、ついに自身で工房を開くことに。基本的に「染め」は全て由美子さんが担当しています。


色をつけていく由美子さん。すべて手作業で行う

紅型が今に伝わっている理由をたずねると、
「残してきた人がいっぱいいた、ということなんですよね。もともとは琉球王国王族のものでしたから、かつては庶民たちが紅型を見ることはなかったでしょう。明治時代に琉球王国が沖縄県に変わり、今度は本土向けに着物や風呂敷をつくって売るようになりました。でも、また世界大戦で全滅となった。しかしそこでも伝統的なものを復活させ、復興させた人たちがいた。
そして戦後の高度経済成長期にはきちんと時代の波にのり、着物や帯をつくり、紅型が認知されるようにしてきたんです。数珠つなぎのように、“人が紅型をつなげてきた”、ということが大きいんですよね」


色を定着させるために顔料に豆汁(ごじる)を混ぜる

「もしかたくなに王朝時代のものしかつくらない、と言っていたら、とっくの昔に無くなっていたんじゃないかなと思います。紅型を支えてきた人びとの柔軟性も、ひとつの理由ですよね。沖縄自体が時代に翻弄されるうねりのなかにあって、その時代の人たちがちゃんと紅型のことを思い、つないできたことが今に紅型が残っている理由だと理解しています。誰に号令をかけたわけでもないのに、それがずっとつながっているんです」と由美子さん。


贈答品として人気のある扇子。仕立ては京都の扇子職人が行っている

カタチキではストールや扇子、クラッチバッグなど、ファッションアイテムとして取り入れやすい紅型商品をそろえています。
「縫製をしてくれる妹がいるからこそ。自分だけではここまでできない」と由美子さんが話す通り、カタチキの作品は姉妹ふたりで作ったもの。その温かな思いがこもった作品を、ぜひ手にとって確かめてみてください。

「思い」でつなげた紅型の作品を沖縄で確かめてみて

紅型は長い歴史の中で育まれ、今なおその独特な色彩や模様で人々を魅了し続けています。そこには、沖縄の移り変わる時代のなかで、逆境に負けず長く繋げるように努力してきた紅型を愛する人びとの心が込められているのですね。

紅型の着物はやや高価ですが、沖縄県内の紅型工房では見学・体験・販売も行っており、気軽に紅型の美しさに触れることができるのもうれしいところ。

ぜひ沖縄旅行に訪れた際には紅型を実際に目の前で見て、感じてみましょう。