日本の伝統的な建築様式として知られる「書院造」。日本の歴史を学んだ人なら誰もが知っているのではないでしょうか。
しかし、書院造がどのようなもので、どういった歴史があるかを説明できる人は少ないはず。
書院造とは室町時代の簡素な住居様式のこと。武士たちが身分や格式を示すために生まれた文化で、深い歴史を持ち、長きに渡って愛され続けています。また書院造はわびさびを象徴するものとして、日本の文化にも大きな影響を与えました。
今回は書院造の歴史や構造、現代でも体験できる場所を紹介します。
※2023.8.26 記載内容修正中
書院造とは
「書院造」とは室町時代に誕生した簡素な武家屋敷の様式のこと。一般的に障子や襖、棚や床の間などのある座敷のことを指します。また一面畳の敷き詰められた部屋は和の趣があり、現代の和室の原型となっています。
書院造の歴史
書院造と紅葉の枯淡美
室町時代になると、貴族の統治下にあった政治や文化を武士階級が掌握する社会に移り変わります。それに伴い、住居も武士の生活に合う建築様式に変化。
書院造は、室町時代以前に貴族階級が住んでいた屋敷の様式である「寝殿造」が元になっています。武士は忠誠や主従関係を確認するための茶会を催すのに、来客を招くための部屋が欠かせませんでした。
しかし、寝殿造には客間がありません。そのため、畳を敷き詰めた座敷と襖、床の間が特徴的な客間が誕生しました。それが書院造です。
禅の精神の簡素さと、端的でありながら深い味わいをもつ枯淡美の基づいた書院造。床の間や違棚(ちがいだな)、縁側に張り出した飾り棚である付け書院などの座敷飾りは、主人の権威を誇示しています。これらは主人の腰を下ろす背後に位置するため、このことが上座の起源だと言われています。
書院造の建築様式
書院造の間取り
書院造では襖、障子などの仕切りが発達し、畳を敷き詰めた部屋が特徴。接客用の広間中心に構成され、室内には仏具や掛け軸のための床の間や、棚板を段違いに取り付けた「違棚」が使われています。
また書院造以前の建築物では円柱が中心でしたが、床の間や棚の設置により、必然的に角柱を用いるようになったそう。
そして今でも日本の侘び寂びの一つである、「枯山水」も書院造ならでは。禅の思想に基づき、水を使わず石や砂で自然を表現した閑静な日本庭園です。
同じ書院造でも、上級武士の屋敷には床の間はなく、「上段の間」が設けられていました。これはその屋敷の当主が、他の家来や武将の一段上に位置するように作られているため。その上、壁に障壁画が描かれることで主人の権威や下克上への戒めを表現していたそうです。
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寝殿造との違いって?
寝殿造で有名な平等院鳳凰堂
寝殿造は平安時代に京都で誕生した貴族住宅の様式のこと。上品かつ繊細を特徴としており、寝殿を中心に自然との調和を重視した建築物です。
寝殿造の代表格は世界遺産である「中尊寺金色堂」。奥州藤原氏の繁栄により、岩手県平泉町に建てられました。内側も外側も繊細な模様が施されており、全体は金箔をまとっています。
平安時代といえば和歌に代表されるような四季折々の自然を謳う文化。敷地内に大きな池や植物が存在するのは、常に自然を感じる美意識から来たといわれています。
ライトアップされた中尊寺金色堂
寝殿造は敷地内中央に主人の寝殿を置き、東西に家族の住む部屋を配置していました。これは「西対」「東対」と呼ばれています。各部屋は長い廊下で囲われており、壁ではなく屏風や簾で仕切られていました。
そして庭には舞の舞台や池があるのが特徴。この様式は中国古来の建築方式にならったものだと伝えられています。
書院造と寝殿造の大きな違いは、簡素か繊細か。これは書院造が東山文化、寝殿造が北山文化の影響を受けているため。前者は優美で華やかな北山文化を受け継いでいますが、禅宗の精神により、簡素で洗練された文化となりました。
また書院造は武士の仕事のために用いられることから、書院(書斎)が中央に位置しています。それに対して寝殿造は家主の寝室が中央に置かれており、仕事が生活の基盤となる武家と、娯楽を主とする公家の違いが現れています。
書院造が使われている建造物
簡素なのに武士道が込められた「書院造」。実は日本の歴史的建造物として現在も残されています。これからいくつかを見ていきましょう。
二条城・二の丸御殿
書院造の代表である二条城二の丸御殿
京都観光に欠かせない世界遺産である「二条城」。1603年(慶長8年)、江戸幕府初代将軍徳川家康が、天皇の住む京都御所の守護と将軍上洛の際の宿として築いたものです。
その中の二の丸御殿は江戸時代の書院造の代表的な建物で、1867年(慶応3年)に15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行う際に使われたことで有名になりました。二の丸御殿は6棟で構成されており、黒書院と白書院が書院造になっています。
どちらにも違棚、座敷などの書院造の特徴はありますが、それぞれ違う特徴を持っています。黒書院は柱や障子の縁などの木の部分が漆で黒く塗られています。この部屋には床の間が設置されており、日常的な行事に使用されていました。
対して白書院は木の部分が白い檜のみで作られています。白書院には上段の間が設けられ、公的な行事を行う際に使用されました。
また両部屋の障壁画や襖絵は、狩野探幽(かのうたんゆう)らが描いたもの。黒書院の床の間には厳たる松と散りゆく桜が交えられており、徳川家当主の厳格さと冷静さを表現しています。
それに対して白書院は水墨画に包まれる空間となっているため、黒書院のような強さに比べて落ち着いた印象を与えます。
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銀閣寺・東求堂(国宝)
わびさびを彷彿させる銀閣寺
わびさびを特色とする東山文化の代表格とされている「銀閣寺」。1482年に室町幕府第8代将軍足利義政の山荘として建てられ、義政の死後に寺院として改められました。
その際に義政の守り本尊を祀るために建てられた東求堂(とうぐどう)。ここの一室である同仁斎(どうじんさい)は、床の間や棚、造り付けの机を備えた書院造となっています。
飾らないひっそりとした美を表す「わび」と、古びて趣がある様子を表す「さび」を尊ぶ東山文化は、ここから生まれたとされています。
東求堂は礼儀や上下関係を戒めるものではないことから、床の間に絵や装飾品は置かれていないそう。しかし、この光景は普段見ることはできません。東求堂は年に2回、春と秋の特別拝観の時だけ公開されます。
書院造のことをもっと知りたい人はぜひ足を運んでみてください。
天下の三棚(修学院離宮、桂離宮、醍醐寺三宝院)
実は違棚にもいくつか種類が存在します。京都比叡山山麓に位置する修学院離宮にある「霞棚」、桂離宮の「桂棚」、醍醐寺(だいごじ)三宝院にある「醍醐棚」は、「天下の三棚」と呼ばれています。
修学院離宮
修学院離宮の霞棚
江戸時代の代表的山荘である「修学院離宮」。1655年に後水尾天皇の指示で建立された宮内庁管轄の皇室施設です。広大な敷地が誇るのは,上離宮,中離宮,下離宮と呼ばれる3つの庭園と建物。その内の中離宮の客殿は書院造が使われています。
大小5枚の棚板が互い違いに配置された違棚があり、この様子がいかにもゆらゆらと漂うかすみのようであることから「霞棚」と呼ばれているそう。
桂離宮
桂離宮の庭園
日本庭園の最高峰として知られる「桂離宮」。宮家の別荘として江戸時代初期に建てられた建築物です。桂離宮は造営から約400年以上火災の被害を受けておらず、造営当初そのままの状態で遺されています。
また1930年代に来日したドイツ人建築家ブルーノ・タウトが、「涙が出るほど美しい」と言い放ったことから有名になりました。
そんな桂離宮の中書院は一の間、二の間、三の間で構成されており、一の間にある「桂棚」が1番の見どころ。桂棚は、違棚と床に接して設けられた戸棚を技巧的で複雑に組み合わせた棚のことです。一見無秩序に見えますが、視覚的にも実用的にもバランスが取れていると設計士や建築家が息を呑んでしまう芸術的な代物。
この様式は茶道では大変使いやすく、織田信長や豊臣秀吉が愛した茶道家の千利休はこれをもとに茶室を作ったほど。その茶室は数寄屋と称され、江戸時代に主流となった数寄屋造の元になりました。そのような観点から桂離宮は数寄屋造最古の建造物ともいわれています。
この簡素で実用的でありながらやや奇抜な違棚を目の当たりにしたタウトは、「洗練の極致に達し、しかもその表現が極度に控えめである」と芸術的存在として称えたそうです。
醍醐寺三宝院
醍醐寺三宝院の書院
豊臣秀吉の「醍醐の花見」で知られる「醍醐寺」。平安時代初期に創建された真言宗醍醐派の総本山で、世界遺産に指定されています。応仁の乱で一度消失しましたが、それを復興したのが豊臣秀吉。
今でも桃山文化を代表する壮麗な庭園が広がっており、春になると華麗に咲き誇る桜が、戦国時代の武将の尊厳さを物語ります。
三宝院は桃山時代の書院造の代表例で、その中にある違棚は「醍醐棚」と呼ばれています。この棚はただの棚板が壁についているのではなく、透かし彫りの入った繊細な名品。
襖を開くと日光が透かし彫りを通り、壁に模様を描きます。戦国時代に生まれたこの棚は豊臣秀吉の威厳を表しており、室町時代当初の書院造とは一味違う雰囲気を醸し出しています。
書院造が体験できるおすすめスポット
実はこの「書院造」、現在でも体験することができます。洋室主体の現代に、和の情緒あふれる和室で侘び寂びを感じるひと時を。
伊豆 おちあいろう(登録有形文化財 明治7年創業)
静岡県天城湯ヶ島温泉郷にある「おちあいろう」。創業1874年(明治7年)、2本の川が合流する畔に佇むことから名付けられました。建物は昭和初期の書院造で、国の有形文化財に登録されている木造旅館です。
書院造の和室は総檜で、まさに二条城二の丸御殿の白書院を感じさせます。さらに温泉で有名な施設だったこともあり、かつては安らぎを求めて田山花袋や島崎藤村などの文豪も訪れたそう。
【基本情報】
アクセス:中伊豆東海バス河津行き「湯ヶ島」から徒歩約20分
住所:〒410-3206 静岡県伊豆市湯ケ島1887-1
電話番号: 0558-85-0014
送迎:あり(有料/事前予約必須)
公式サイト:伊豆温泉旅館 おちあいろう
湯河原 島崎藤村ゆかりの宿伊藤屋(登録有形文化財)
神奈川県湯河原万葉公園前に位置する「島崎藤村ゆかりの宿 伊藤屋」。
創業明治21年、島崎藤村の名作「夜明け前」の原案を練った場所として知られており、今でも遺稿や愛用品が残っているのだとか。自然あふれた場所に湧き上がる源泉が疲れた身体に染み渡り、心も身体も癒されるひとときを過ごすことができます。
伊藤屋の名物は本館52番の客室。明治天皇直属の部下である公爵が滞在するために建てられた書院造の部屋で、手の込んだ違棚や床の間は当時と変わらず使用され続けています。
素朴なのに美しく、書院造の侘び寂びを感じられるのではないでしょうか。
【基本情報】
アクセス:JR東海道本線「湯河原駅」からバス乗り場2番(温泉場・不動滝・奥湯河原行き)約13分「公園入口」下車すぐ
住所:〒259-0314 神奈川県足柄下郡湯河原町宮上488
電話番号: 0465-62-2004
送迎:なし
公式サイト:湯河原温泉登録有形文化財の旅館 伊藤屋
HOTEL THE MITSUI 京都 レストラン四季の間
「HOTEL THE MITSUI 京都 レストラン四季の間」は、京都府中京区二条にあるお食事処。かつては三井総領家の邸宅でした。
この中心にあったのは「四季之間」と呼ばれる庭園の四季を感じられる空間。三井家当主は書院造のこの部屋を愛し、書院造本来の用途である接客の場として使用したそうです。
これを総檜で改装し、継承したのが現在の「四季の間」。書院造のわびさびとともに食事やお茶を堪能できます。
【基本情報】
アクセス:地下鉄東西線「二条城前駅 」2番出口徒歩3分/地下鉄烏丸線「烏丸御池駅 」2番出口徒歩10分
住所:〒604-0051 京都府京都市中京区油小路通二条下る二条油小路町284
電話番号:075-468-3155(宿泊予約)
送迎:なし
公式サイト:HOTEL THE MITSUI 京都 レストラン四季の間
歴史と癒しあふれる書院造
普段あまり触れることのない「書院造」。実は一つの建築様式にも深い意味や時代背景が含まれていました。何気なく使っていた「和室」も、少しだけ見方が変わって愛着が沸いてくるはず。
実は現代でも書院造を体験できる場所は日本中にまだまだ存在します。その場所の歴史や意味を知った上で足を運び、いつもとはちょっと違う視点で楽しんでみてはいかがでしょうか。