- 1. 端午の節句・子どもの日の由来と昔の風習
- 現代の端午の節句といえばどんな日?
- 端午の節句の起源は中国の風習
- なぜ「男の子のお祝い」に?
- 「宮中の年中行事」から「庶民の楽しみ」へ
- 【豆知識】端午の節句の〝端午〟とは?
- 【豆知識】もともとは〝女の日〟だった?
- 2. 端午の節句・子どもの日にまつわる食べ物&込められた意味
- 端午の節句のお菓子【ちまき】
- 端午の節句のお菓子【よもぎ餅】
- 端午の節句のお菓子【柏餅】
- 端午の節句の行事食【菖蒲酒】
- 3. 端午の節句・子どもの飾りと、その歴史
- 端午の節句の飾り【鯉のぼり】
- 端午の節句の飾り【のぼり旗】
- 端午の節句の飾り【兜】
- 端午の節句の飾り【人形】
- おわりに
5月5日は端午の節句、いわゆる子どもの日です。男の子の健やかな成長を願って、空には勇壮な鯉のぼりが舞い、部屋には五月人形が飾られますよね。
しかし「端午の節句」とよく聞きはしますが、そもそもどんな意味や由来があるのでしょうか。
この記事では、気になる端午の節句とその起源や由来、意味について見ていきます。合わせて、子どもの日にまつわる飾り物や食べ物についても、わかりやすく解説。
行事の背景を詳しく知ることで、ことしの5月5日は普段と違う雰囲気で過ごせるかもしれませんね。
1. 端午の節句・子どもの日の由来と昔の風習
季節の風物詩として親しまれている端午の節句は、昔から続く日本の伝統行事です。古くは奈良時代に始まったとされ、形を変えながら現代まで続いてきました。
今でこそ男の子の健やかな成長と、無病息災を願う行事になっていますが、その意味は時代とともに変遷してきたようです。端午の節句について、由来と歴史についてお話していきましょう。
現代の端午の節句といえばどんな日?
5月のカレンダーと兜の刺繍
現代の端午の節句といえば、男の子の行事にふさわしい飾り物は欠かせません。地方によって異なりますが、やはり五月人形と鯉のぼりが定番です。
五月人形には厄除けという意味合いがあり、鯉のぼりは男の子の出世への願いが込められています。
ちなみに両方とも飾らなければいけないということはありません。片方だけでも構いませんし、五月人形だけでなく、兜や鎧のみを飾っても良いでしょう。
また端午の節句では、特別な行事食を食べることが受け継がれてきました。その代表的なものが、柏餅とちまきです。
関東では柏餅、関西ではちまきを食べるのが一般的ですが、現在はどちらも手に入りやすいことから、両方揃えて食べる家庭も多いのだとか。
今は引っ越しや転居が多い時代ですから、端午の節句の新しいスタンダードが生まれるかも知れませんね。
端午の節句の起源は中国の風習
屈原の肖像画。作者不明(画像:Wikimedia Commons)
端午の節句の起源は古代中国に求められます。今から約2300年前、楚の国王の側近で屈原(くつげん)という人がいました。
詩人でもあった彼は、正義感と国を思う情熱が強く、人々から信望を集めたといいます。
ところが屈原は、謀略によって国から追放されてしまいました。やがて失望したあげく、汨羅(べきら)という川に身を投げて亡くなってしまうのです。
中国の市場で販売されているちまき
川へ船を出した楚の人々は太鼓を叩いて魚を脅し、屈原の遺骸を守るためにちまきを投げ入れました。
こうした逸話から、命日にあたる5月5日になると、供養のために祭が行われるようになり、やがて中国全体へ広まったそうです。
祭りでちまきを川に投げ入れる行為は、次第に病気や災厄を避ける重要な宮中行事へと移り変わり、それが端午の節句となったとされています。
三国志の時代に、端午の節句は旧暦の5月5日に定められ、奈良時代になると日本へ伝わってきました。
なぜ「男の子のお祝い」に?
家の軒先に飾られた菖蒲。当時、端午の節句は「菖蒲の節句」とも呼ばれていました
端午の節句は長い間、厄除けを目的とした朝廷の宮中行事として行われていました。
清少納言の代表作『枕草子』によれば、端午の節句当日にはあちこちの家の軒先や女房の髪の毛に菖蒲やヨモギが飾られるため、周囲にはそれらの草花の香りが漂っていたそうです。
しかし鎌倉時代が始まり武家政治ヘ移り変わるにつれて、厄除けを主目的とした端午の節句の行事はだんだん廃れてしまったといいます。
やがて武道を重んじる鎌倉時代の色を表すように、端午の節句で用いられてきた「菖蒲」と「尚武(武道や武勇を重んじること)」の語呂合わせから、端午の節句を「尚武の節句」として盛んに祝うようになりました。
江戸時代になると、5月5日は江戸幕府の重要な式日に定められ、大名や旗本が江戸城へ詰めて、将軍にお祝いを奉じるようになります。
こうした時代の変遷の中で、邪気を払うという端午の行事が、男の子へのお祝いとして結び付いたと考えられます。この風習は武士だけでなく、やがて広く一般の人々にまで広まっていきました。
「宮中の年中行事」から「庶民の楽しみ」へ
折り紙で作った兜
奈良時代に端午の節句が伝わったのち、朝廷では5月5日に菖蒲を飾り、無病息災を祈る節会が行われていました。また5月は田植えが始まる時期ですから、古くから大切な月とされていたようです。
当時の宮中では、季節の変わり目となる端午の日に、病気や災厄を避けるための行事が行われていました。魔除け・厄除けの菖蒲を飾ったり、悪鬼を退治するため馬から矢を射るといった儀式があったそうです。
のちに武士の間で端午の節句が盛んになると、その風習は庶民層へ広まっていきました。ちなみに武家ですと、門前に馬印や幟を立てて祝うのですが、庶民は幟を立てることを許されていません。
そこで代わりとなる鯉のぼりを上げるようになりました。やがて鯉のぼりだけでなく、紙の兜や人形を作るようになり、これが五月人形に発展したとされています。
【豆知識】端午の節句の〝端午〟とは?
端午の節句の頃に開花する花菖蒲。実は魔除けに用いられる葉菖蒲とは異なる植物です
さて、ここまでたくさん登場した「端午」という言葉ですが、これは何を意味するのでしょう。「端午」はもともと、月初めの午(うま)の日という意味で、5月だけに限ったものではありません。
ただし午と五の音が同じだったため、毎月5日のことを指すようになり、やがて5月5日が端午と定められたと伝わります。
また5月5日の節句は、五と五を重ねる事から「重五(ちょうご)」、あるいは(中国の陰暦で5月は悪月とされるため)菖蒲を用いて邪気を払う意味で「菖蒲の節句」とも呼ばれています。
特に5月は季節の変わり目で昔から病気が流行りやすく、亡くなる人が多かったとか。人々が生きるための切実な思いこそ、端午の節句が生まれた理由なのかもしれません。
【豆知識】もともとは〝女の日〟だった?
田植えに際して神事が執り行われる様子
古来の日本には、田植えが始まる5月に「早乙女」と呼ばれる女性たちが小屋や神社などに籠もり、身のケガレを祓う習慣がありました。
当時は米そのものが霊力を持つと考えられ、白米は神様へのお供えや特別な日の食べ物として尊ばれており、そんな米を作るための田植えも大事な神事の一つだったのです。
神事としての田植えで重要な役割を果たすのが女性でした。これは、妊娠や出産を行う「女」という性別に、人々が豊穣のイメージを見出したためと考えられています。
田植えに参加する女性たちは「早乙女」という敬称で呼ばれ、神事に参加する前に身を清める必要がありました。このような背景から、5月5日は女性の厄祓いの日でもあったのです。
田植えをする早乙女たち
地方によっては、5月5日の前日を「女の日」と定めていた所もあったようです。これは地域特有の民間習俗の一種で、年に一度女性が労働から解放され自由になれる日でした。
作物の収穫量が生死に直結する当時の農村では、男女ともに労働力としての役割を求められました。特に女性は農作業に加えて家事や子育てなども行わなければならず、目の回るような忙しさだったといいます。
日々そうした役割を果たす女性のため、せめて一日くらいは骨休めさせてあげたい…。そんな家族の思いが、このような習俗を生んだのでしょう。
2. 端午の節句・子どもの日にまつわる食べ物&込められた意味
端午の節句には、特別な食べ物が登場します。今でこそ簡単に手に入り、何気なく食べているものですが、そこにはさまざまな意味が込められているのです。
ここからは端午の節句にまつわる食べ物について、詳しく見ていきましょう。
端午の節句のお菓子【ちまき】
左が主に関西で親しまれているちまき、右が主に関東で親しまれているちまき
先ほども紹介しましたが、端午の節句にちまきを食べる起源とは、古代中国の屈原に由来します。中国ではちまきを屈原になぞらえて、忠誠心が高い立派な人というイメージに結び付きました。
そこから屈原が川へ身を投げた5月5日に、立派な大人に育つことを願って、子どもにちまきを食べさせる風習が生まれたと考えられています。
奈良時代、端午の節句が日本へ伝わると、やがて都を中心に行事食としてちまきが広まっていきました。
ちなみに、同じちまきでも地域によって形状や中身に差が。関西地方では白くて甘い団子を笹で包んだものを、東日本ではいわゆる竹の皮で中華おこわを包んだものを、それぞれちまきと読んでいます。
端午の節句のお菓子【よもぎ餅】
よもぎ餅とヨモギの葉
端午の節句はもともと、病気や災厄を避けるための行事として成立しました。菖蒲やヨモギなどを編んだ薬玉を飾ったり、贈り合ったりすることで、邪気を払うという習慣が根付いたそうです。
特にヨモギは殺菌・抗炎症作用が強く、古くから薬草として親しまれてきました。また荒地でもよく育つ繁殖力の強い植物です。
昔の人々は、こうしたヨモギの優れた生命力に強く惹かれていました。そのため子どもの健やかな成長を願う端午の節句には、子孫繁栄の願いを託してヨモギを餅に練り込んで食べさせるようになったと考えられます。
よもぎ餅は特徴ある緑色で見た目もおいしそう。口に入れれば爽やかな風味が広がって、さらに食欲が増しますよね。昔から子どもに人気があるのもわかるような気がします。
端午の節句のお菓子【柏餅】
左が味噌あんの柏餅、右が小豆あんの柏餅
ちまきが中国から伝わってきたのに対し、かしわ餅は日本が発祥です。餅を包む葉がなる柏の木は、古くから神聖なものとされてきました。
柏は新しい芽が出ないと古い葉が落ちないことから、子孫繁栄の願いを込めた食材として親しまれたようです。
江戸時代中期になると、ちまきに代わる縁起の良い行事食として、柏餅が端午の節句で食されるようになりました。
ちなみに店によって、柏の葉を表向きに巻いているものと、裏向きに巻いているものがあります。これは小豆あんの時は表向き、味噌あんの場合は裏向きに巻くことで、中身の違いを示しているそうです。
端午の節句の行事食【菖蒲酒】
竹の酒器が風流です
菖蒲といえば、紫色の花を咲かせるアヤメ科の花菖蒲を想像しがちですが、実は食材には不向き。
菖蒲酒にする場合、ショウブ科の菖蒲根を用いるのが一般的でしょう。鼻に抜ける香りが強く、鎮痛や抗酸化作用、殺虫作用などが期待できます。
菖蒲根を徳利や銚子に入れ、しばらく酒に浸してから飲むのですが、まるで若葉のように爽やかな香りが漂い、それだけで初夏の訪れを感じられますよ。
菖蒲湯に浸かる子ども
よく知られる、菖蒲の葉を用いた菖蒲湯も昔から人気を集めていたようです。
現代よりずっと霊的な信仰が強かった時代の人々は、端午の節句には菖蒲酒を飲み、菖蒲湯に浸かり、ちまきを食べることで、邪気を払い災を避けられると信じていたのでしょう。
3. 端午の節句・子どもの飾りと、その歴史
端午の節句に飾り物は欠かせません。五月人形や鯉のぼり、のぼり旗など、季節の風物詩として初夏を彩ります。
そんな今でこそ当たり前の調度品には、それぞれどんな由来があり、いつから根付いたのか、詳しくひも解いていきましょう。
端午の節句の飾り【鯉のぼり】
空を泳ぐ鯉のぼり
子どもの日にお馴染みの鯉のぼりですが、その歴史は江戸時代から始まります。
各地で勢力争いが繰り広げられた戦国時代が終わり、社会が安定しつつあった江戸時代。端午の節句は庶民たちの間に浸透し、やがて子どもの成長を願う風習として定着しました。
なかでも裕福な町人たちの間では、武士が用いる旗指物(はたさしもの)の代わりとして、勇壮な武者の絵柄を描いた武者のぼりを掲げることが流行。
武士が戦場で身に着けていた旗指物の一種、のぼり旗
こののぼり旗が、やがて豪華な鯉を模した吹き流しになったといわれています。鯉は出世や成長の象徴であることから、おめでたい鯉を飾ることが家の繁栄をもたらすと考えられました。
ただし江戸時代中頃まで錦鯉が存在しなかったことから、鯉の吹き流しは地味な「まごい」一匹だけだったようです。
19世紀に越後や大和郡山などで錦鯉の養殖が盛んになると、鮮やかな色彩の鯉のぼりが登場し、現在のカラフルな鯉のぼりの面影が出現。
しかし非常に高価だったため、庶民たちは布の代わりに紙を代用して鯉のぼりを作ることが多かったとか。
端午の節句の飾り【のぼり旗】
鯉のぼりと一緒に飾る場合もあるようです
「のぼり旗」というのは、武士が合戦で用いる旗指物に起源があります。これは大きくて目立つ旗を背負うことで、自分の活躍ぶりを認めてもらう目的がありました。
つまり、のぼり旗とは勇敢さの象徴だったわけですね。江戸時代の端午の節句では、旗指物や武具が虫干しも兼ねて庭先に飾られるようになりました。
やがて旗指物には、男子の健やかな成長を願う美しい絵が描かれるようになり、家々ではためく往来の旗指物が道行く人々の目を楽しませたといいます。
中国の神・鍾馗(しょうき)が描かれたのぼり旗
こうして武士を中心にのぼり旗を飾ることが広まり、「節句のぼり」や「武者のぼり」として庶民の間に浸透していきました。
ちなみに図柄はさまざまで、「鯉の滝登り」や「昇り龍」、「鍾馗さま」や「戦国武将」といったパターンが数多くあったようです。
端午の節句の飾り【兜】
金屏風を背景にした兜
「節句」とは、季節の変わり目という意味もあります。そうした時期には邪気が寄りやすいため、飾り物やお供えをすることで魔除け・厄払いをし、無病息災を願う風習がありました。
さて武士が活躍していた時代、梅雨へ入る直前になると兜や鎧を取り出し、家の中に飾る習慣があったようです。これはきちんと風を通すことで、虫干しと手入れをするためでした。
端午の節句に兜や武具が飾られるのは、こうした武士の習慣に由来すると言われています。
また武士にとって兜や鎧は、身を護る大事な装備です。兜を飾ることで「大切な我が子を守ってくれるように」という願いが込められているのでしょう。
端午の節句の飾り【人形】
凛々しい顔の五月人形
子どもの日に五月人形を飾るお宅もきっと多いはず。そこには男子の健やかな成長と、強くたくましく育ってほしいという願いが込められています。
江戸時代中期まで、家の外側に大きな棚を作ったり、あるいは店先や縁側などに大型の人形が飾られることが多かったようです。
さらに江戸時代後期になると外で飾ることは少なくなり、人形も小型のものに変化していきました。現代のように家の中で飾ることが増えたわけですね。
神事で身代わりとして用いられる人形
また古くから人形は、人の身代わりとなって災いを受けてくれると信じられてきました。人形のことを「ヒトガタ」と呼ぶのはそのためで、いわば人の代わりとなる依代(よりしろ)という意味があるのです。
「五月人形のお下がりはNG」とききますが、これは「子どもの身代わりになって厄を引き受ける」という人形の本来の意味からきているということですね。
お下がりでも気にしないという方は多いかもしれませんが、なかには「厄を引き継いでしまう」と不安になる方もいるでしょう。
どちらが正しいということもありませんが、気になる場合は子ども一人につき一つ人形を用意するのが良いかもしれません。また処分の際はゴミとして捨てずに、きちんと供養するのがおすすめです。
おわりに
端午の節句には、健やかな子供の成長を願うだけでなく、そこに様々な意味が込められています。
元々は厄払いの宮廷行事だったものが、武士の世を経て庶民へ広まり、子孫繁栄を願う儀式として変化していきました。
また端午の節句の食べ物についても、きちんと科学的根拠に基づいている点に、先人たちの工夫と知恵が垣間見えます。
こうした由来や歴史を知ることで、いつもの「子どもの日」が違った視点で見えてくるのかも知れません。
Text:明石則実
webライター。おもに歴史や城に関する記事を執筆のほか、YouTube動画の制作にも携わり、さまざまなメディアで歴史の面白さを発信している。得意分野は歴史探訪、山城めぐり、街歩き、グルメなど。気の合う仲間たちとお城をめぐりつつ、歴史談義に花を咲かせるのが楽しみ。定期的に数十人規模で城めぐり企画を開催。親睦を図りつつ大人の遠足を楽しむことがライフワーク。
Edit:Sakura Takahashi
Photo:PIXTA(特記ないもの)
参考文献:
河合敦ほか『歴史群像シリーズ特別編集【決定版】図解・江戸の四季と暮らし』(学習研究社/2009年)
ナヴィインターナショナル『カラー版 英語で作る和食 食の歳時期』(ナツメ社/2009年)
新谷尚紀『絵でつづるやさしい暮らし歳時期』(日本文芸社/2013年)
是澤博昭『子供を祝う 端午の節句と雛祭』(淡交社/2015年)
酒井卯作『稲の祭と田の神さまー失われゆく田んぼの歳時期』(戒光祥出版/2004年)