白い城壁が美しく、春には桜が舞い散る「鶴ヶ城」。かつてこの城を守るために戦い、若くして自決の道を選んだ少年たちがいました。その少年たちこそ「白虎隊(びゃっこたい)」です。
戊辰戦争の際に構成された玄武・朱雀・青龍・白虎の4隊の中で最も若い隊であった白虎隊。そんな彼らはなぜ歴史が生んだ悲劇として語り継がれているのでしょうか。
今回は白虎隊の歴史と白虎隊が守ろうとした会津の魅力について紹介します。
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白虎隊とは?
燃え盛る会津を見る白虎隊士の像
白虎隊は戊辰戦争(ぼしんせんそう)の際に会津藩隊士の子息で組織された軍隊です。
飯盛山へ敗走し、燃え盛る会津を見て自決したことで知られる白虎隊。奇跡的に生き残った隊士がいたことで、後世まで語り継がれることとなりました。
江戸から明治へと時代が移り変わる境目に生まれた彼らは、幼いながらも西郷隆盛率いる新政府軍から鶴ヶ城を守り抜くために戦いました。
白虎隊が結成されるまで
白虎隊はなぜ結成されることとなったのか。少年たちが戦争に駆り出され、命を失うのにはどのような背景があったのでしょうか。白虎隊が結成されるまでと、白虎隊が戦った戊辰戦争について解説していきます。
会津藩校日新館
白虎隊が学んだ会津藩校日新館
現在の福島県会津若松市に位置する「会津藩校日新館(あいづはんこうにっしんかん)」。白虎隊に所属していた隊士は10歳からここで厳しい教育を受けました。
日新館では剣術、砲術、水泳や中国古典、さらには天文学などさまざまな学問を学んだ隊士たち。これに加え、厳しい心得を叩き込まれました。そして自刃の仕方もここで教わったそうです。
戦争の際は野戦病院となり、焼け落ちてしまったため、現在の場所に再建されました。
什の掟
白虎隊士が幼い頃から叩き込まれた什の掟
会津の子供たちが守るべき厳しい掟であり、日新館に入学する前に学ぶのが「什の掟」。同じ町に住む6〜9歳までの藩士の子供たちは十人前後で集まりをつくっていました。それが「什(じゅう)」。大人たちから言われてつくったものではなく、自発的に励み合うことで生まれました。
毎日、什のメンバーの家に集まり、昨日から今日にかけて掟に背いたものがいなかったかどうかの反省会を行っていました。
一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです
これらの掟を破ったものがいれば度合いに応じて制裁が加えられることも。「会津武士の子はこうあるべきだ」と互いに高め合っていたそうです。
戊辰戦争とは?
日本を変えた戊辰戦争の流れ
白虎隊士が日新館で学んでいる頃、日本では大きな時代の変化が訪れていました。
1853年、黒船が浦賀沖に来港。長年行ってきた鎖国が終わり、外交が始まると将来の日本のあり方をめぐった争いが激しくなってきました。
1866年3月、薩摩藩(現鹿児島県)と長州藩が薩長同盟を締結。次第に倒幕の機運が高まり始めていました。そのため徳川慶喜は「大政奉還」を行い、政権を朝廷に返上。
しかし、新政府側はその後も旧幕府側が政権を掌握していることに反発し、明治天皇が「王政復古の大号令」を発令しました。これにより、幕府は完全に廃止。新政府の誕生が宣言されることとなります。
その後、武力解決を望む西郷隆盛からの挑発に耐えかねた旧幕府軍が火蓋を切り、いよいよ戊辰戦争が開戦します。鳥羽・伏見の戦い、江戸城無血開城、東北戦争、会津戦争、五稜郭の戦いを経て戊辰戦争は新政府軍の勝利で終戦。日本の歴史を変える大きな意味を持つ内戦であるとともに、白虎隊を含む多くの犠牲者を出す戦争となりました。
戊辰戦争に対する会津藩の対応
鳥羽・伏見の戦いの石碑
会津藩は「京都守護職」という京都の治安維持を任されていたこともあり、幕府側との繋がりが強い藩でした。そのため、藩主である松平容保(まつだいらかたもり)は旧幕府軍として「鳥羽・伏見の戦い」に参加。人数では有利なものの、最新式の武器を扱う新政府軍に劣勢を強いられ、敗北を喫しました。
中国に伝わる四神
会津藩は新政府軍に「鳥羽・伏見の戦い」で大敗したことを受け、軍隊を精神論から戦力に重きをおくフランス式に改革。古代中国で信じられた四方位を司る神にのっとった玄武・朱雀・青龍・白虎の4隊体制を取り、戦力を整えました。
本来白虎隊は16〜17歳の隊でしたが、入りたいがために年齢をさば読みして入隊した隊士もいたそう。総勢約300人で主に城内の警護にあたり、緊急時には戦闘に参加するという役割を与えられ、結成に至りました。
奥羽越列藩同盟の奮闘碑
戦争が進行し、江戸城が無血開城された後、会津藩は東北地方の藩と協力して新政府側への恭順の意を示しました。しかし、新政府軍はそれを拒否。そのため、会津藩を含む東北地方の諸藩は「奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)」を結び、新政府軍と戦い続けることとなります。
白虎隊の最期までを追う
朱雀隊・青龍隊の予備として結成された白虎隊。ここでは彼らがどのようにして最期を迎えたのかを、自刃をした隊士の中で唯一生き残った飯沼貞吉(いいぬまさだきち)が著した『白虎隊顛末記(びゃっこたいてんまつき)』の内容をもとに解説していきます。
出陣
新潟県に位置する長岡城
白虎隊が出陣したのは1868年8月20日のこと。隊士たちが自刃するわずか3日前のことでした。新政府軍の猛攻は凄まじく、長岡城(新潟県長岡市)、二本松城(福島県二本松市)、福島城(福島県福島市)を次々に攻め落としていきました。
また奥羽越列藩同盟の中心であったはずの仙台藩が援護を拒否。周りの藩からの援助も失い、窮地に立たされた会津藩は兵を総動員することに。一刻も早く現場に行きたかった白虎隊士は念願叶ってか、戦闘の舞台となる「戸ノ口原(とのくちはら)」に向かっていくことになります。
霧雨の戦闘、そして退却
白虎隊が向かった滝沢本陣
8月22日(現在の10月8日)、佐川官兵衛が指揮を取り、白虎隊を含む約250名が戸ノ口原、十六橋へと向かいました。その日の昼、白虎隊は日向内記隊長の指揮で松平容保がいる滝沢本陣へ移動。その後白虎隊も戸ノ口原へ進行していくこととなります。
22日の夜10時ごろ、日向内記が他の隊に用があると出かけたまま戻ってこず、隊士たちは緊張感に包まれました。そして23日の朝5時ごろ、戸ノ口まで進行した白虎隊の一部は篠田儀三郎小隊長の号令により、近づいてきた新政府軍に一斉射撃を開始。
銃身が熱くなり、素手では持つことができなくなるほど発砲し続けたそうです。初めは慌てた様子の新政府軍でしたがのちに武器の性能差で圧倒。白虎隊は3名の死者を出すこととなってしまいます。
新政府軍の攻撃を受け、退却命令が出たため、霧雨の中来た道を逃げていきました。憧れた戦場で友人を亡くし、雨の中必死に逃げていく隊士たちは何を考えていたのでしょうか。
その後、新政府軍を振り切り、鶴ヶ城を目指すこととなります。その道中、多くの兵士と遭遇。敵か味方かわからなかったので合言葉を求めると発砲されました。
なんとか逃げ、彼らが次に目指したのが南に位置する飯盛山。そして彼らは自らの死地へ導かれていくこととなります。
飯盛山へ
白虎隊が眠る飯盛山
隊士の一人である永瀬雄治が腰を撃たれて山頂を目指すのが難しくなったため、中腹を目指すこととなりました。
白虎隊が通った戸ノ口堰洞門
猪苗代湖から水を引くための用水路である戸ノ口堰洞門(とのくちせきどうもん)を通り、秋の冷たい水の中を進んで自刃の地へと辿り着きました。
隊士の自刃
白虎隊が自刃をした地
白虎隊が自決をした理由は、城が燃えていると勘違いしてしまったからだと思っている人も多いと思います。しかし、実際のところは城下町が燃えており、城はまだ落ちていないことがはっきりと見えていたようです。
隊士の野村駒四郎は城に入って敵と戦うことを提案しました。しかし篠田儀三郎が「城に入るのは不可能ではないが、誤って敵に捕まり、捕虜となったら君主や先祖に申し訳ない。潔くここで自刃をし、武士の本分を明らかにするべきだ。」と提案。
この意見に全員が賛成し、8月23日午前11時ごろ、少年たちは自らに刃を突き刺し、自決することとなりました。
自刃のその後
砲撃を受けた鶴ヶ城(写真提供:会津若松市)
その後、鶴ヶ城では1ヶ月もの間籠城戦が繰り広げられました。会津藩は藩士やその家族に城内へ入るように指示していましたが、女性や子供や高齢者などは足手まといになるのではと集団自殺する人もいたそう。
会津藩の家老であった西郷頼母(さいごうたのも)の一族は21名で集団自殺し、幼い子供は妻である千重子が刀で刺し殺すこととなります。
籠城戦は苛烈を極め、多くの死傷者を出しました。新政府軍に包囲された鶴ヶ城は1ヶ月間砲撃を受け続け、美しい城は痛ましい姿へと変わっていきます。城下ではすべての人が必死に戦い、多くの人が死んでいく日々が続きました。
そして9月22日に会津藩が降伏宣言をし、会津での戊辰戦争は終結。犠牲者は数千人にのぼると言われるほど激しく、多くのものを失った戦争でした。
計17名が自刃した白虎隊。その中でただ一人、飯沼貞吉(のちに貞雄と改名)が奇跡的に息を吹き返しました。その後飯沼貞吉は日本の電信事業に多大なる貢献を果たし、1931年に77歳で逝去。飯沼貞吉が生存したことで白虎隊の悲劇は後世まで広まっていくこととなります。
愛犬クマと共にいる酒井峰治の像(写真提供 Instagram: go_roku7hachi様)
また白虎隊記念館前の銅像で知られる酒井峰治(さかいみねじ)は戸ノ口原での戦いの後、はぐれてしまいますが、農民の助けを借りて生存します。そして銅像でも一緒にいる愛犬のクマと飯盛山の裏手で再会。その後鶴ヶ城での籠城戦に参加しました。
酒井峰治は最後まで生き残り、猪苗代へと預けられます。そこで飯沼貞吉と再会し、はぐれた仲間が自刃したことを知りました。
自刃した隊士が眠る白虎隊の墓
諸説ありますが、旧幕府軍は天皇に歯向かう「賊軍」と捉えられていたため、白虎隊士の遺体はしばらくの間放置されていたそうです。それを哀れに思った地元の農民によって各地に埋葬。
飯盛山にある白虎隊士の墓では絶えることなく煙が上がっており、多くの人が手を合わせに訪れています。
白虎隊記念館
貴重な資料が残る白虎隊記念館
白虎隊をはじめとする会津藩の歴史を後世に伝えたいとの思いで、会津若松出身の弁護士であった早川喜代次(はやかわきよじ)によって創立されました。
館内には貴重な資料が保存されており、酒井峰治の手記や自刃した隊士が書いた手紙などを見ることができます。
白虎隊の関連作品
会津のために勇敢に戦い、絶望の中命を落としていった白虎隊。この悲劇は現代まで語り継がれ、多くの作品となりました。白虎隊について理解を深めることができる作品を紹介します。
①『白虎隊』(1986)
『白虎隊』は1986年12月30日、12月31日に放送されたテレビドラマです。前編では京都での動乱から白虎隊ができるまで、後編では会津戦争を中心に描いた作品。主題歌である「愛しき日々」は大ヒットを記録し、この作品の人気を後押ししました。
②『白虎隊』(2007)
上記の作品と同名であるこちらの作品は2007年1月6日、1月7日に放送されたドラマです。主演である山下智久さんが酒井峰治を演じたことでも話題になりました。
③『八重の桜』(2013)
『八重の桜』は2013年1月から放送された大河ドラマです。主人公は鶴ヶ城での籠城戦に男装をして参加したとされている新島八重。綾瀬はるかさんが演じたことでも話題になった作品です。白虎隊だけでなく、会津の人が明治時代を生き抜いていく様を見ることができます。
会津地方のおすすめ周辺スポット
白虎隊は歴史が生んだ悲劇
今回は「白虎隊」について紹介しました。希望に満ちた時代の移り変わりの中で絶望を味わい、命を絶った白虎隊士。「歴史は繰り返す」とならないためにも歴史の裏側に目を向け、白虎隊士の残した史跡を巡ってみてはいかがでしょうか。