昔ながらの風景と北山王の今帰仁城跡
今帰仁村 城跡周辺見どころスポット①「クバの御嶽」
今帰仁村 城跡周辺見どころスポット②「今帰仁ノロ殿内火の神の祠」
源為朝伝説が残る?ガイドと巡る今帰仁村の遺構
今帰仁村の知られざる絶景ポイント「運天森展望台」へ
「源為朝公上陸之跡碑」も忘れずにチェック
源為朝が最初に住んだ洞窟
琉球王国から派遣された看守の大きな墓
「今帰仁村」で琉球・沖縄がたどった歴史の波を感じよう
今帰仁村の周辺情報

沖縄本島北部に位置する今帰仁村(なきじんそん)は、古民家や自然の美しい海岸線など素朴な沖縄の風景がひろがる場所。「世界遺産 今帰仁城跡」が人気の観光地として知られています。今帰仁城跡は県下有数の景勝地であり、さらに1月下旬から咲き始める桜の名所でもあります。

実は、今帰仁城跡に関しては書物・史書などによる記録がほとんど残っていません。しかし現在までに発掘調査が行われ、城跡を中心として様々な史跡が確認・保存されており、沖縄を知る上ではとても重要な場所であるとされています。

今回はそんな今帰仁村が持つ、知られざる歴史スポットを巡る旅へ出かけていきます。

昔ながらの風景と北山王の今帰仁城跡


自然の海岸線が残る今帰仁村の長浜ビーチ

沖縄本島北部の本部半島、沖縄美ら海水族館からほど近くにある今帰仁村。手つかずの豊かな自然が残り、行き交う人々や車ものんびりとして、時間の流れが穏やかで沖縄の昔ながらの心地よい雰囲気を感じられる場所です。


今帰仁村はスイカが有名。年中村内の直売店に並ぶ

そんな今帰仁村にあるのが、琉球王国として統一される前に沖縄北部地域を治めていた「北山王」がいた今帰仁城跡です。

「世界遺産 今帰仁城跡」とは?


2001年に世界遺産に登録された今帰仁村の今帰仁城跡

今帰仁城跡へ訪れまず驚くのは、海面に大きく立ち上がる波のように、来る者を圧倒する美しい曲線を描く城壁。まずは、この城壁を持つ今帰仁城跡について、歴史を遡っていきましょう。

世界遺産でもある今帰仁城ですが、実は誰により造られたかは不明。さまざまな地域の有力者(按司・あじ、豪族の意)が城を造り群雄割拠していた、グスク時代(12~13世紀ごろ)に造られたとされています。

その後、沖縄北部には北山(=今帰仁城・ほくざん)、中部には中山(ちゅうざん)、南部には南山(なんざん)が力を持つこととなり、各地域の按司をそれぞれ治めて「三山(さんざん)時代」を迎えます。

三山時代は14世紀ごろに100年ほど続きましたが、1416年に中山の尚巴志(しょうはし)により今帰仁城跡の北山王は滅ぼされます。


山の上に造られた城

最後の北山王は攀安知(ハンアンチ)という名の王でした。残されている琉球王国の史書で攀安知は「武芸絶倫で淫虐無道」とされており、「尚巴志と戦い、側近に裏切られて自害した」という説が残っています。

ちなみに、琉球王国により書かれた北山王の最期は、北山・中山・南山を統一して琉球王国を造った側から記録されているものであるため、「琉球王国統一の正当性」を裏付けるためのものとして書かれたものであるという見方もあるそうですよ。

史実があきらかになっていないために、逆に北山王の存在は歴史ロマンにあふれたものとして現代に伝えられています。


難攻不落とうたわれた今帰仁村の今帰仁城址

今帰仁村城跡周辺見どころスポット「クバの御嶽」

「世界遺産 今帰仁城跡」に訪れたら、ぜひ注目したいのが「クバの御嶽(ウタキ)」。一見ただの山のように見えますが、クバの御嶽は古来より人々の信仰を集める、城跡の横にそびえ立つ山のことを指します。

実際に到達するためには険しい道を歩かなければならないため、今帰仁城跡の入場券売り場前近くにクバの御嶽を拝むことができる「サカンケー」が設置され、現在でも多くの方が参拝する場所に。


今帰仁村のクバの御嶽を望むサカンケー

御嶽とは?

沖縄には仏教や神道は浸透しておらず、「先祖崇拝」と沖縄独特の「御嶽(ウタキ)信仰」や「ニライカナイ信仰」が色濃く残っています。沖縄独自の伝統・文化は、信仰面にも根付いているのです。

「御嶽信仰」とは、集落ごとに置かれ、神様がいるとされる「御嶽」を中心とする信仰。御嶽の形はさまざまで、今帰仁村のように山全体が御嶽とされる場所もあれば、平地にひょっこりある杜を御嶽とする場合も。


今帰仁村 今帰仁城跡内にある御嶽「ソイツギ」

今帰仁城跡の城内にも「ソイツギ」をはじめとして3~4つの御嶽があり、今も地元の方により参拝されています。今帰仁村の「クバの御嶽」は沖縄中にある御嶽のなかでも、重要で神聖な御嶽として位置づけられています。

今帰仁村 城跡周辺見どころスポット②「今帰仁ノロ殿内火の神の祠」


今帰仁村 今帰仁城跡近くにあるノロの住居跡へ続く道

次にご紹介する今帰仁城跡周辺のスポットは、今帰仁城跡入場券売場から歩いてすぐの場所にある「今帰仁ノロ殿内火の神の祠(ほこら)」。

琉球王国から今帰仁城址に配置され、地域の祭祀を行い、御嶽を管理をしていた神事を行う公職「ノロ」の住居跡地です。現在でも当時の様子がうかがえる祠があり、神聖な空気に包まれています。

約450年もの長きにわたり繁栄した琉球王国の特徴として、女性による神事を司る組織が大きな力を持っていたことが挙げられます。女性たちは王府の公職「ノロ」と呼ばれ、各地に配置されました。琉球王国は信仰の力で民衆を統率し、国を動かしていたと考えられています。

沖縄では城のすぐ近くに農民の住居を置くことが一般的。今帰仁城址でも当時、農民たちは城周辺に住んでいたことが明らかになっています。北山王の時代から農民たちは山の上の城のそばでいくつかの集落に分かれて住み、そのうちのふたつが「今帰仁ムラ」と「親泊(おやどまり)ムラ」と呼ばれていました。

廃城後、それまで山の上の城周辺に住んでいたノロ、そして今帰仁ムラと親泊ムラの人々は、海のそばへ移動。2つの村から1文字ずつをとって、現在の「今泊(いまどまり)集落」が誕生しました。

1879年に琉球王国が沖縄県となり、同時にノロ制度は廃止に。しかし、今泊集落には現在もノロ(現在は代理ノロ)が引き継がれており、御嶽や拝所で祭司を執行しています。今泊は、今なお沖縄の伝統文化が残る場所なのです。


格子状に家々が並ぶ今泊集落

世界遺産 今帰仁城跡から車で約3分。海のそばにある「今泊のフクギ並木集落」は現在、沖縄の昔の風景を残す趣ある集落として密かな人気を集めています。


今泊集落のフクギ並木道

フクギの木は防風、防潮、防火林としての役目を持っており、海岸に近い集落では家のまわりをぐるりとフクギの木が囲み、台風などから人々の生活を守ってきました。フクギの間から見える琉球古民家の姿は、昔から変わらぬ美しく素朴な沖縄の生活を表現しています。

そして、農民たちとともに今泊集落内に移動した「今帰仁ノロ殿内」には、多くの参拝者が訪れます。誰でも参拝が可能
(9時~17時)で、運がよければ現在のノロにも会うことができるでしょう。


今泊集落内にある「ノロ殿内」

源為朝伝説が残る?ガイドと巡る今帰仁村の遺構

今帰仁村の歴史や伝統について、さらに深く学ぶために、ガイド案内をしている「今帰仁グスクを学ぶ会」開催の城外コースへ参加してきました。


「橋の駅リカリカワルミ」から見渡す屋我地島と古宇利島

今回歩くのは、「橋の駅リカリカワルミ」から見渡す、入りくんだ海岸線や運天港が舞台の「運天コース」。

「橋の駅リカリカワルミ」とは今帰仁村の絶景スポットのひとつで、羽地内海・運天周辺・屋我地島・古宇利島、そして遠くには沖縄本島北部の国頭の山々を見渡せます。天気がよければ与論島まで見えるそう。

紺碧の海に島々が浮かび、沖縄県内でも他では見ることのできない自然が織りなす美しい風景が広がります。

航海中、荒天にあっても入り組んだ地形である運天港に入れば安全。さらに羽地内海まで行けば常に穏やかな平水面ということもあり、運天港は昔から重要な港として機能していました。那覇港と運天港は2大港として日本や中国と交易を行っていた場所とされています。


「今帰仁グスクを学ぶ会」ガイドの小浦さん

「今帰仁グスクを学ぶ会」ガイドの小浦さんと合流し、いよいよ運天コースへ出発です。

今帰仁村の知られざる絶景ポイント「運天森展望台」へ


今帰仁村 運天森園地の展望台から古宇利大橋を見る

まず訪れたのは、沖縄海岸国定公園「運天森園地」の展望台。

目の前に離島古宇利島へ渡る全長1,960mの古宇利大橋が走り、奥にはやんばるの山々が見える場所です。

小浦さんによると、黒い部分が大きな珊瑚礁で、橋の手前を左から右へ入っていくのが外海から運天港に向かう海の道。ちょうど中央の色が濃く、深くなっているのがわかります。10,000t 級の船もこの深さなら、運天港からさらに羽地内海まで抜けていくことができるとのこと。船にとって条件のよいこんな地形は、ほかになかなかないでしょう。

現在は運天港として少し場所を移動して整備され、沖縄県北部にある伊平屋島と伊是名島へのフェリー発着地に。


昔の運天港周辺には遺跡が点在

地形として大変便利のいい港であった運天港は、沖縄や日本の歴史の流れのなかでさまざまなできごとを経てきた港でもあります。例えば1609年、薩摩軍が琉球王国に侵攻した際の拠点であったり、19世紀にはフランス艦隊や、アメリカのペリー艦隊が国交のために訪れたり。長きにわたり沖縄の重要な港であったことがうかがえます。


今帰仁村 運天港で出港を待つ伊平屋島行きのフェリー

さて、そんな今帰仁村運天に残っているのが、「源為朝伝説」。

源為朝(みなもとのためとも)とは1156年の保元の乱に敗れ、伊豆大島に流刑となった人物です。沖縄では為朝が大島から脱出し、嵐に遭遇して、ここ今帰仁村の運天港に「運を天に任せて」辿りついたとされています。

ガイドの小浦さんは「日本を意識して書いたのでしょう。琉球王国は日本と中国のどちらともと交易を行っていましたから。その後、源為朝について書かれたのは薩摩軍の実質的な支配下にあった時代であるという背景を考えながら見ていくと、とてもおもしろいんですよ」と話します。

ちなみに、そんな為朝の物語はさらに続きがあります。今帰仁のノロとの間に男子を授かり、その子が後に中山王となった舜天である…のだとか。こんな源為朝の話が琉球王国に残されているものの、真偽のほどは定かではありません。かつての王たちのストーリーに思いを馳せるのもいいかもしれません。

「源為朝公上陸之跡碑」も忘れずにチェック


源為朝公上陸之跡碑

次に山の中にある「源為朝公上陸之跡碑」へ訪れました。

源為朝伝説を元に建てられた石碑の文字を書いたのは、日本の幕末から昭和時代初めの武士として名高い、東郷平八郎。日清戦争や日露戦争で英雄となった人物です。

石碑が建てられたのは1922年のこと。当時、まさしく沖縄を日本国のひとつとして組み込もうと、沖縄において沖縄の言葉を使わず、標準語を使うようにと強制される直前です。政策上のひとつであったと捉えることができますね。

「今帰仁村は歴史上で沖縄にとって、とても重要な場所」と小浦さん。琉球・沖縄の辿ってきた歴史のもの悲しさも感じつつ、今となってはほとんど誰も通ることがなくなった山の中の道にある石碑を後にしました。

源為朝が最初に住んだ洞窟


今帰仁村の洞窟

次に訪れたのは「運天のティラガマ」。源為朝が今帰仁村運天に流れ着き、最初に隠れ住んだとされている洞窟です。


源為朝の手形跡と伝説が残る

為朝は2m10cmの大男で、為朝が手をついた跡と言われる石も洞窟内にありました。言い伝えでは「弓を引くため右手と左手で長さが10cm違っていた」と細かいところまで書かれているそうです。

琉球王国から派遣された看守の大きな墓

今帰仁村運天港周辺には、琉球王国時代を物語る重要な遺跡が残っています。次に訪れたのは、琉球王国時代の歴史スポットでもある2つの「墓」。

百按司墓

琉球王国の第一尚氏時代に今帰仁城址に派遣されていた監守貴族が葬られているとされる墓「百按司(ムムジャナ)墓」へと行ってみます。


山道の奥に見えてくる百按司墓

山道を歩いて行くとその先に開けた場所が見えてきます。


山の中腹に大きく広がる百按司墓

明治20年代に修復がなされ、石積み囲いの状態で今でも残されています。囲みの中には風葬した骨を入れた小型の木棺があったそうです。墓の目の前は海が見渡せる絶景で、下は今帰仁村運天港の人々が住まう集落となっています。


中をのぞく穴がある

墓の中には陶器でできた骨壺の厨子甕(ずしがめ)が見えてびっくり。眺めのよい山の岩に造られた墓は、大きく迫力満点で圧倒されました。今帰仁城跡から離れて、運天港の上に造られていることからも、港に対する重要性がうかがわれます。

第二尚氏時代の大北墓


石の階段をのぼり墓前へ

続いて訪れたのは、第二尚氏時代の北山監守を務めた一族が葬られている大北墓(ウーニシハカ)。監守の一世は首里城近くにある「玉陵(たまうどぅん)」に葬られ、二世以降30人余りの骨がこちらに納められているそう。


人々が拝みに訪れる場所

墓前には大きなモクマオウの木が墓を守るかのように立っています。さまざまな花や植物が墓を囲み、島の間を抜けて運天港からの穏やかな風が感じられる心地よい場所。


ゆったりと穏やかな空気が流れる大北墓

運天港と大北墓の間には「大和墓」と呼ばれる墓がありました。日本薩摩とも運天港でやりとりが行われており、航海の途中や運天港に停泊している間に亡くなった方が葬られているそうです。


大北墓横にそっくりな猫が3匹。大きなあくび

飛行機での移動が主流となった現代、運天港は主に伊平屋島と伊是名島へのフェリーの往来を見送るのみとなり、今帰仁村・運天港にはゆったりとした時間が流れていました。

「今帰仁村」で琉球・沖縄がたどった歴史の波を感じよう

島国である琉球・沖縄が他国と交易した窓口であり、歴史的重要な出来事を見てきた運天港。源為朝伝説やノロの存在など、今帰仁村には「世界遺産 今帰仁城跡」とともに琉球・沖縄の歴史を体感できるスポットが数多く残されています。歴史の時代背景を考えながら、自分だけのストーリーを探しにぜひ今帰仁村へ訪れてみてください。

今帰仁村の周辺情報